Photo by Yoshihisa Wada

「ドトールコーヒーショップ」「エクセルシオール カフェ」「カフェ コロラド」「洋麺屋五右衛門」「卵と私」、そして最近では「星乃珈琲店」など、実に46もの外食ブランドを運営するドトール・日レスホールディングス。異色の“外食コングロマリット(複合体)”を率いる大林豁史会長は大きな声で快活に笑う“ガハハ”系。印象とは裏腹に、開口一番、「いろいろな経営者がいるが私は慎重で安全運転をする」。起業からドトールコーヒーと日本レストランシステムの経営統合、そして「21世紀に生き残れる外食産業」を語ってもらう。

食を教えてくれた大林家三代の女たち

 私は今、持株会社であるドトール・日レスホールディングス会長であると同時に、傘下の事業会社であるドトールコーヒーの会長、日本レストランシステムの会長兼社長を務めている。

 私の父は、私が外食業界に参入する前に亡くなっており、息子がこの業界で仕事を始めたことを知ったならば、草葉の陰で仰天してしまうだろう。

 大林家は、世間から見れば堅いエリートの家だった。母方の祖父は少将まで務めた筋金入りの陸軍軍人で、祖母は1896年(明治29年)の生まれだが、東京女学館を出て英語もそこそこしゃべれる人だった。一方、父は広島県呉市の出身で、東大を出た後に日銀に入っていた。叔父など一族に東大出身が多く、とにかく「堅い会社で勤め上げるのが当たり前」という世界だった。

 そんな一族で、私は変わり種となった。東京大学経済学部を卒業し、父のアドバイスもあって日興證券に入社したまでは良かったが、父の死後、自分でも想像だにしなかった外食業界での人生が始まった。

 もっとも、大林家は、食に関しては大変に恵まれていた。その起点は同居していた母方の祖母にある。

 先にも紹介したように東京女学館を出たモダンなおばあさんで、とにかく料理を作るのが好きだった。しかも和洋折衷のレパートリーがあり、今でも思い出すのが牛タンだ。

 私は終戦も間近い1944年に生まれ、いわば戦後の混乱期に幼・少年期を過ごしたが、幼い頃からわが家の食卓には祖母が作った牛タンシチューがよく並んだ。日本人は牛タンをあまり食べないし、進駐軍の払い下げもあって価格が安かったのも並んだ理由だったのだろう(仙台が「牛タンの街」になるのは、米軍三沢基地の兵士向けに送られた牛タンが、調理されないまま大量に放出されたのがきっかけだ)。