大陸から大勢の中国人留学生が押し寄せるまでの歌舞伎町は、中華系といえば台湾クラブが主流だったが、90年代前半には大陸系の中国クラブが台湾系を駆逐して席巻するようになった。

 謝鳴の歌舞伎町デビューも台湾クラブだった。

「昼間は専門学校があったので、夕方から効率よく稼げる仕事といったらやはり水商売です。たまたま知人から、クラブのステージで歌える女の子を探していると聞き、飛びついたんです」

 ただのホステスではなく、クラブ付きの「歌手」として働くことになった謝鳴は、水を得た魚のように夜の歌舞伎町で頭角を現していった。働き始めて1年、台湾クラブは彼女のファンであふれかえるようになり、いつしか常連客たちの間で“歌舞伎町の歌姫”と呼ばれるようになっていった。

常連客の寄付金で
開業にこぎ着ける

 そして、その1年後には、ファンの後押しもあって独立を果たし、歌舞伎町に自分のクラブ『浪漫亭』をオープンさせた。店にはステージが設けてあり、生バンド演奏が売りのキャバレースタイルの店だった。この『浪漫亭』は、歌舞伎町で最初の大陸系中国クラブといわれている。

「貯金だけでは足りなかったのですが、常連のお客さんたちが寄付金を募ってくれて開店することができました。このときのお客さんたちとは、今もずっといいお付き合いをさせてもらっています。日本でうまくやっていく秘訣は、お金儲けに走らず、人を大切にすること。そうすれば日本の人たちって、必ず応援してくれる。人との絆こそ、私の財産です」

 生き馬の目を抜く歌舞伎町で、彼女の店は四半世紀もの間、盛況を続け、3年前、惜しまれつつ閉店となった。経営不振からではない。最愛の夫がガンになり、その闘病生活に寄り添うためだった。