リーマンショックやチャイナショックなど、多くの投資家が損失を拡大するような状況でも、常に圧倒的なパフォーマンスを実現し続けたヘッジファンドマネージャーの塚口直史氏による連載。話題の新刊『一流の投資家は「世界史」で儲ける』の内容を中心に投資家にとって有益な情報だけをお伝えしていく。
オランダ黄金時代から学ぶこれからの世界
連載第1回では、これからの世界を考える方法として、ダニ・ロドリックが唱えた「世界経済の政治的トリレンマ」をご紹介しました。連載第2回では、前回の話の続きとして、17世紀のオランダがどのようにグローバル化を進めていったのかについて説明していきたいと思います。
「オランダの世紀」といわれる17世紀において、日本は武力でオランダに開国を迫られたわけではありません。お互いの利害や民意を尊重しながら、双方納得のうえで日蘭はグローバル化に乗り出していったのです。
当時のオランダは世界一の海軍力を誇っており、海軍との戦いには絶対の自信を持っていました。ところが、陸軍が強い日本に対しては粘り強い外交で臨む他ありませんでした。
現代のグローバル化は核の均衡下で武力を行使できない形で実現されていますが、当時のグローバル化もそれと似た状況で実現されたのです。
当時の日本は、信長・秀吉の時代を経て、資本主義の萌芽が見られた時期でした。
全国規模の金融市場システムが確立され、徳川・豊臣の二重公儀体制のもとで商業資本が形成されていきました。銀の採掘・精錬の技術革新もあって貨幣の供給量が急速に増えていき、中央に集められた資本の運用先が求められていた時期だったのです。
ときを同じくして、オランダでも本格的な商業資本が形成されようとしていました。ヨーロッパにおける新興国であったオランダも、資本主義が発達し始めていたのです。
これから述べる事情によって、銀を渇望していたオランダにとって日本との交易は銀貨を獲得する絶好のチャンスでした。
当時のオランダはネーデルラント(現在のオランダとベルギーを合わせた地域)と呼ばれ、毛織物の輸出などを中心として商業が栄えていました。
ところが、宗主国スペインからの重税と宗教弾圧(プロテスタントへの弾圧)に悩まされ、スペインに対して宣戦布告をします。
この独立戦争でオランダはイギリスの支援を得られたこともあり、1581年に北部7州(現在のオランダ周辺)が独立を宣言するにいたります。
しかし、これで争いが終結したわけではありません。スペインによる経済封鎖はそれ以降も続き、それまでオランダに流入していた新大陸からの銀や、アジアからの香辛料が途絶えてしまいました。とりわけ、当時の国際交易が銀で行われていたことから、商業国オランダにとっては銀の獲得が急務となっていました。
その頃、オランダが目をつけたのが日本です。当時、世界の銀の6割がスペイン統治下にあった南米のポトシ銀山から産出されていましたが、残りのうち3割を占めていたのが日本だったのです。
オランダは1602年にオランダ東インド会社を設立し、徳川・豊臣の二重公儀体制にあった日本との交易を目指すことになりました。