なぜ、オランダは鎖国時の日本と交易ができたのか?

 南アフリカの喜望峰からマゼラン海峡、極東にいたるまでの貿易・軍事・貨幣鋳造などの権限をオランダ連邦議会から与えられたオランダ東インド会社は、国民の間で確実に利益を上げられるだろうと予想され、出資権をめぐって大ブームが起こりました。

 その裏側には、会社側の様々な工夫がありました。オランダ東インド会社では、出資権の一口一口を「株式」と呼ばれる証券に分け、少額でも出資できるようにしたのです。

 しかも、この株式は無限責任ではなく有限責任とされていたり、株式を自由に譲渡できるようにしたりと、現代の株式と同じような性格を備えていました。

 こうした工夫によってオランダ東インド会社は、世界初の株式会社として莫大な資本を投資家から集めることに成功したのです。

 当時のイギリスにはすでに東インド会社がありましたが、こちらは航海ごとに出資者を募る方式で、恒常的な株式会社ではありませんでした。

 また、イギリス東インド会社の第1回航海の出資金に比べて、オランダ東インド会社はその10倍もの規模で開始されたのです。

 これらの事実を見ても、オランダ東インド会社が株主からの長期的なサポートを得ながら安定的に運営していこうという姿勢で努力をしていたことが分かります。

 この巨額の資本金を基に、オランダ東インド会社(以下、東インド会社と記す)は陸海軍を整備し、スペイン征服下のポルトガルが無防備化されていた間隙をついて、ポルトガルがアジアに築いていた商圏を奪うことに成功します。

 とりわけ、東インド会社の隆盛をもたらした一番の要因は、アジア最大の銀供給国である日本との交易にあったと言っても過言ではないでしょう。

 東インド会社の主力商品は、インドネシア産の香辛料です。また、インドの綿布も当時需要があり、それらを購入するために使用されていたのが日本銀でした。

 この時期、日本では西陣織などの絹織物がブームとなり、生糸の需要が高まっていました。東インド会社は、この生糸を福建省や台湾を基盤とする貿易商・鄭芝龍らから買いつけ、その生糸を日本に売って銀を受け取るという形で対日貿易を独占していきました。

 その一方で、徳川幕府への政治的な働きかけも積極的に行いました。その代表的なものに軍事協力があげられます。たとえば、1614年の大坂冬の陣では、オランダ製の大砲を家康に貸与し、これらの大砲を使った大坂城天守閣への砲撃が和議を引き寄せる大きな役割を果たしました。

 また、1637年の島原の乱でも、幕府の要請を受けて海上からの砲撃を行うなど協力を惜しみませんでした。

 こうして徳川幕府がオランダを高く評価する地合いが整えられ、日本はオランダのみを通商相手国とする鎖国制度を導入したのです。

 このような懸命な努力もあり、それまでポルトガルが押さえていたアジアの商圏はほぼオランダのものとなりました。その結果、東インド会社の期待株式配当率は、定款に定められた5%から、設立後わずか3年で80%弱にまで拡大しました。

 こうした高配当が人気をあおり、東インド会社は順調に増資を続け、設立から10年も経たない間に当初の5倍にも及ぶ資本調達に成功します。こうしてオランダ東インド会社は、17世紀の約100年間にわたって、平均20%以上の高配当を続けることができたのです。

 武力もさることながら、前述のような粘り強い交渉と懸命な努力を続けたことが、オランダの繁栄を導いたといえます。経済封鎖という形で保護主義をかざすスペインなどの軍事大国の嫌がらせにも負けず、皆でお金を出し合って果敢に冒険を行う度胸と、相手国を尊重する外交力によって、オランダは世界の覇権を手に入れました。

 最盛期の17世紀前半には世界貿易の5割を支配するほどで、この時期にオランダに集められた富は莫大なものとなっていました。