前回、絵画や音楽など芸術における「見立て」について述べ、その発想がダジャレと通じていることがわかって頂けたかと思います。最後は江戸時代の「地口」のことを述べていったん「見立て」の話を中締め一茂しましたが、今回も引き続き「見立て」関連について。より日常的な事例で検証していきたいと思います。
タモリさんのダジャレ的な展開は
知的な笑いを好む人を惹きつける
まずはみなさんのかなり身近なネタであるところの「たとえ話」。タモリさんの例を持ち出すまでもなく、「たとえ話上手は会話上手」と認識されているでしょうが、ここでひとつ加えておきたい。
「たとえ話上手は会話上手でダジャレ上手」。
三段論法入れ替え的にはこうも言えます。
「ダジャレ上手はたとえ話上手で会話上手」。
つまりは逆説的に「会話上手はダジャレ上手」と言い切りましょう! いやこれはネタとしていじっているのではなく真実です。
というのも、くだんのタモリさん。タモリ倶楽部などで、会話の流れに乗りながらダジャレ的に言葉が転がる展開を、ゲストと共に楽しんでいるのをよく見かけます。あの番組に出演するゲストの方々も、人気や知名度にこだわらずタモリさんとセンスが通じて話が合う人が出ています。だからこそ、ゲスト側も同じように言葉を転がし、かぶせ、クイックレスポンスありと、ダジャレ=見立て系な会話が心底楽しそうに進行していきます。この素の感性が知的な笑いを志向する人たちを惹きつけるのです。
じゃあ、タモリさんはしょっちゅうダジャレ言ってるのかというと、みなさんテレビでご覧の通り、そんなことはない。番組に応じて、司会者、進行的役割の出演者として、その場に求められる会話をリードしていかなくてはならないので、毎度毎度、自分がダジャレ(ここでは似た言葉という意味の)を思いついても、音(言葉)として発する意味はないのですから。
でもしかし、新しい固有名詞を耳にした時など、しょっちゅう思いついているはずだと僕は思ってはいます。なぜなら僕がそうだし、僕の周りでも同じ匂いの思考の人はみんなこう考えているから。そこでその言葉を発しても意味ないなと思ったら音としては“飲み込んで”(感覚としてはまさにこれが適切な表現)、アタマの中に入れておく。つまり、キープ、ですね。タンスの引き出しに分類してしまっていくかのごとく。