この7月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録された。同月半ば、筆者はかつて「隠れキリシタン」と呼ばれる人々が住んでいたと言われる西彼杵半島の長崎市外海(そとめ)と佐世保市の黒島を訪れ、取材を行った。数百年にもわたって歴史の表舞台から姿を隠し、ときには激しい弾圧を受けながらも自らの信仰を貫き通した彼らは、いったいどんな信念を持ち、どんな暮らしをしていたのか。そして末裔は今、どうしているのか。その足跡を、どうしても追ってみたくなったのである。(取材・文・撮影/ジャーナリスト 粟野仁雄)

隠れキリシタンの末裔はいま?世界遺産の地で続く知られざる信仰
隠れキリシタンの末裔たちは、世界遺産の地で今も信仰を続けている。写真は旧出津救助院で、古いオルガンの弾き方を訪問者に教えるシスター

「隠れ」と「潜伏」の違いは?
キリシタンの聖地・外海を歩く

 筆者が訪れたのは、長崎県の中でも隠れキリシタンの末裔が多いと言われる外海(そとめ)地区だ。江戸時代にキリシタンを厳しく取り締まった大村藩の城下から遠く、信仰に比較的寛容な佐賀藩の飛び地もあったことから、古くからキリシタンが多い土地柄だったという。キリシタン弾圧を題材にした遠藤周作の小説『沈黙』の舞台でもある。海を一望できる高台の遠藤周作文学館は、閉館時間だった。

 ド・ロ神父記念館は、この地域におけるキリシタン信仰の象徴的な場所の1つ。高名な神父が使った祭服や、自筆の日記、愛用のカレンダー、さらに医学にも造詣の深い彼が本国から持ってきた、胎児を持つ女性の人体模型まである。

 すぐ下の旧出津救助院には、授産施設(漁師の夫を海難事故で失った女性などが、自立した生活を目指して働く施設)で使われた織機、糸車、服などが並ぶ。

 ド・ロ(マルク・マリー・ド・ロ)神父は1840年生まれで、フランスのノルマンディ地方の出身。1868年(明治元年)に長崎、1879年に貧しかった外海に赴任し、教会建設や殖産興行に尽くし、1914年にこの地で没した。記念館でハルモニウムという古いオルガンの弾き方を、「今でも鳴るんですよ」と訪問者に教えていた谷口愛子さんは、代々カトリック信者だ。近代における隠れキリシタンの歴史を知る1人である。

「私も父も幼児洗礼、生まれて1週間ですね。昔は新生児の死亡率が高く、生まれてすぐ洗礼を受けさせた。子どもの頃から朝夕、お祈りしていた」

 今回、世界遺産のニュースが出て認知が広まったのが「潜伏キリシタン」という言葉だが、多くの読者にとっては聞き慣れないだろう。筆者が小さい頃、学校では「隠れキリシタン」と習ったし、手元の『日本史辞典 新制版』(数研出版)にも「潜伏キリシタン」という言葉はない。谷口さんは笑いながら、こう解説する。

「『潜伏キリシタン』とは、高札(禁教令の高札)が外れる前(禁教令が解ける1873年までのキリスト教の弾圧下)の信徒のこと。高札が外れた後もそのまま潜み続けて残った一部の人が『隠れ』ですが、『潜伏』は最近使われるようになった言葉で、昔からある言葉ではありません。私たちは単に『昔キリシタン』と言っていました。今は私みたいにミサをさぼっている人を揶揄して『潜伏』と言ったりするの」