歴代のジャパンウオッチャーは日本人像をどう伝えてきたのか。文化的に最も相容れぬ存在だった西洋人の指摘を追って見ていくと、中世以来の類型がようやく崩れつつある様が読み取れる。
(ダイヤモンド・オンライン編集長 麻生祐司)
第二次大戦末期に米軍の依頼で執筆され、その後の日本人論の指南書となった『菊と刀』。著者で文化人類学者のルース・ベネディクトは、与えられた題材の難しさについて、こう吐露している。
「困難は大きかった。(中略)まじめな観察者が日本人以外の他の国民について書くとき、そしてその国民が類例のないくらい礼儀正しい国民であるというとき“しかしまた不遜で尊大である”と付け加えることはめったにない」
ベネディクトは、戦前はおろか戦後も日本を訪れたことはない。その門外漢が、行動を規制する“恥意識”と損得で宗旨変えする“機会主義的倫理”という日本文化の型を見出せたのは、当人の異文化理解力の高さもさることながら、歴代の観察者による研究成果に負うところが大きい。
日本人の行動様式の矛盾は、遠く戦国時代にも宣教師が指摘していたことだ。織田信長との交流で知られるルイス・フロイスは、礼節を厳格に重んじる特性をほめそやす一方で、日本人は生来秘密を守ることができず、「信用のおけぬ国民」と述べている。
このフロイスと『日本王国記』を著したアビラ・ヒロンも、日本人は6~7歳で道理をわかっているとしながらも、しかし「忘恩」であり「何事にも極端に走る」と書き記している。
豊臣政権によるキリシタン迫害に遭った宣教師の言葉のすべてを鵜のみにはできないが、二律背反性は、鎖国期、幕末、明治時代に訪れた西洋人によっても指摘されてきた共通項だ。
いまだに折に触れ頭をもたげる“日本異質論”の背景には、この西洋人による日本人論の長年の積み重ねがある。