2000年代になって日銀は2度の「デフレ戦争」に巻き込まれた。デフレ戦争とは、私が勝手に名付けたのだが、金融緩和によってデフレを脱却しインフレにしようという戦いだ。この戦争は、政府(内閣府)の「デフレ宣言」によって始まった。

 デフレ宣言は、金融危機や米国のITバブル崩壊後の2001年3月と、リーマンショックからしばらくたった09年11月の2回出ているので、デフレ戦争も、第1次(01年3月~06年3月)、第2次(09年11月~)に分けてみた。

 デフレ戦争は日銀にとって不愉快この上ないものだろう。

 政府の一官庁にすぎず、しかも金融の専門家でもない内閣府が出すデフレ宣言によって金融緩和を求められ、せざるを得なくなるからだ。できることならデフレ戦争は始めたくないし、始まってしまったのであれば速やかに終わらせたい。

 しかし、第2次デフレ戦争になると、「2%物価目標」が掲げられ、政府・日銀の共同宣言までまとめられたから、デフレ脱却宣言を政府が出すまでは、事実上、戦争が終えられないことになった。

 今の異次元緩和策からの「出口」の議論などを日銀からは言い出せないのだ。

 第1次デフレ戦争はそれでもまだ救いがあった。当時、景気後退が始まったが、金利に下げ余地はなかったので、量的緩和を試すというのは、日銀としても乗れない話ではなかった。

 加えて、金融機関の不良債権処理を進める上で潤沢な資金供給が必要だったので、デフレ宣言に応じて日銀は初の量的緩和政策を始めた。

 この第1次デフレ戦争は、金融機関の不良債権処理にめどが付き、戦後最長の景気回復が始まり、物価も小幅ながら上昇するという運にも恵まれ、06年には終了する。

 しかし、今も続く第2次デフレ戦争は出口のない泥沼状態となっている。明らかに失敗だ。

 何といっても、デフレ宣言のタイミングが唐突であり、悪過ぎた。当時、景気はリーマンショック後の落ち込みから回復に転じており、欧米と違って金融機関の経営にも深刻な問題は生じていなかった。つまり、純粋に「物価目標」のためだけに金融緩和を始めなければならなかった。

 遅行指標である物価を政策目標にして、量的緩和のような非伝統的な金融政策を始めることの危険性を日銀はよく承知している。

 結果が出ないまま、国債などの資産購入を拡大させることは、単に緩和が長期化するだけでなく、中央銀行のバランスシートを悪化させ、日銀に対する信認を低下させる。下手をすれば、物価や金利の急騰をもたらし、バブルも生みかねない。

 また、量的緩和をしたところで物価が上がるわけでもない。

 海外の中央銀行の多くはインフレターゲットを採用し、デフレを回避するために非伝統的な政策に乗り出しているといわれているが、デフレ回避のためというのは表向きで、本当の目的は金融システム不安の回避だ。

 海外の中銀は日銀の第1次デフレ戦争に倣っているだけだ。だから、米国も欧州も金融面での不安が解消してくると、物価が2%上がっていなくても出口に向かうのだ。