超金融緩和がもたらすカネ余りを背景に、巨額の投資マネーが怪しげな企業に流れ込む。フェイクで強欲な奴らがバブル再来を謳歌する一方、貧困層は増大し、経済格差は広がるばかり。そのうえ忖度独裁国家と化したこの国では、大企業や権力者の不正にも捜査のメスが入らない──。
そんな日本のゆがんだ現状に鉄槌を下す、痛快経済エンターテインメント小説が誕生! その名も『特捜投資家』。特別にその本文の一部を公開します!
第2章 逆張りの男(2)
兵頭圭吾は倦んでいた。キッチンテーブルに呑みかけの缶ビールと枝豆。午後11時。ふう、と深いため息を漏らす。溜まった疲労に押し潰されそうだ。
経営する学習塾『黎明舎』から徒歩5分。川越街道が近い住宅街に建つ築30年のマンション4階。夫婦ふたりには充分な広さの3LDK。8年前、30年ローンを組み、買った中古マンションである。月々の支払い12万円。あと22年。気が遠くなる。完済のときいくつだ? しこった脳みそで考える。68、かぁ。生きている自信など皆無だ。いまでさえ息も絶え絶えなのに。
「圭ちゃん、どうしたの」
風呂から出てきた妻が問う。
「顔色、悪いね」
髪を整えながら心配そうにのぞきこんでくる。
「どうってことない」兵頭は目をそらす。「いつものことだ」
「授業、休んだんだってね」
どきりとした。畳みかけてくる。
「その罪滅ぼしにみたらし団子か」
「どこでそれを──」
声が上ずってしまう。妻は優しく微笑む。
「長いつき合いだもの。わかるのよ」
帰宅途中、遭遇した塾の生徒がしゃべったのだろう。妻にはときどき、授業を手伝ってもらっている。その丁寧な教え方で生徒の人気も高い。なかには「兵頭先生よりずっと上手い」と失礼なことを言う子供もいる。が、当たっているだけに苦笑いするしかない。
妻、雪乃。公立中学の国語教師。圭吾と高校時代の同級生。筋金入りの教育者だ。気宇壮大な夢を持ちながら右往左往し、結局はこの大山の学習塾におさまってしまった半端な優等生の自分と違い、堅実に公立大学の教育学部で学び、都の教員試験を上位でクリア。着実にステップアップし、いまは主幹教諭を務める。次の異動で教頭だろう。
もっとも、日々の仕事は実にハードだ。週23コマの授業とその準備、テストの作成と採点、教員会議、担任クラスの生活指導から進路相談、バスケットボール部顧問まで、馬車馬のごとく働いている。土日もバスケ部の練習と試合。ブラック企業も真っ青の激務だ。今夜もクラスの不良少年が繁華街で問題を起こしたとかで、夜遅くまで駆け回っていた。わが妻ながら頭が下がる。
雪乃の経歴で唯一の瑕疵があるとするなら、この兵頭圭吾との結婚だろう。こんなしょぼい人生、想像もしなかったはず。
缶ビールをぐびりと飲る。
「圭ちゃん、ちょっといいかな」
雪乃がテーブルをはさんで座る。片手に炭酸水のペットボトル。前かがみになって見つめてくる。大きな瞳とこぶりの鼻、口角の上がった唇。シャープなあごのライン。美人の範疇に入ると思う。高校時代はバスケットボール部のポイントゲッターとして人気もあった。本人の自己申告だが、教師になってからも男子生徒の間で「上戸彩に似ている」と評判になったことがあるらしい。でも、さすがに40も半ばになると目尻のシワとほおのたるみが目立つ。柄にもなく過ぎ去った歳月を感じてしまう。が、次の質問でそんな感傷は吹っ飛んだ。
「金策、駆け回ってるんじゃないよね」
ぶっとビールを吹いた。ああ、きったない、と雪乃がティッシュでテーブルをぬぐう。わりいっ、兵頭も中腰になり、せっせとティッシュを使いながら弁解する。
「金策なんか必要なわけ、ないだろ」
声が裏返ってしまう。
「突発の休講は大学時代の友人から相談されてさ」
「なにを?」瞳に疑念がある。兵頭は二呼吸おき、心を落ち着かせて答える。
「子供の教育に悩んでいるらしい」
ふーん、と妻は夫に視線を据えたまま炭酸水を飲む。疑念は消えない。すまん、と胸の内で謝罪し、兵頭は言葉を重ねる。
「中学受験を2年後に控えた息子でね。大手塾にも通っているけど、個人の家庭教師もつけるべきか否か、親父はハムレットのように悩んでいるんだ」
雪乃は炭酸水のペットボトルをテーブルにおき、一点を見つめて言う。
「悩めるだけいいじゃん」
一瞬、頭が空白になり、次いで重い現実がのしかかる。自分たち夫婦には子供がいない。年齢も年齢だ。もう無理だと思う。とっくに気持ちの整理をつけていると思ったが、まだ未練があったのか。雪乃は重い口調で語る。
「子供が中学受験なんて恵まれているわよ」
なんだ、そっちか。ほっと安堵の息を吐く。
「公立に来てみなさいよ。いろんな子がいて面白いけど、不幸な子供は徹底して不幸だからね」
ふう、と肩を上下させる。
「もう教師の手に負えないもの」
ペットボトルをつかみ、のどを鳴らして炭酸水を飲む。
その昔、先輩男性教師が酒席で吐いた暴言、「しょせん、公立中学はしぼりかす。まともな家庭の子供は高いカネを払って塾に通い、私立に進むんだから」に激しく反発し、口論の末、張り倒したという武勇伝を持つ雪乃。その筋金入りの剛直な教育者でさえ、シビアな格差社会を前に、己の無力に泣きたくなるときがあるのだろう。雪乃は切々と語る。
「両親が呑んだくれのパチンコジャンキーで生活保護とか、若いシングルマザーが団地に引っ張り込んだ無職のチンピラによるひどいDVとか、性的虐待とか」
瞳が潤む。
「子供は親を選べないって言うけど……」
目尻を指でぬぐい、ボトルの底に残った炭酸水を飲み干す。
「子供が死ぬほど欲しくてもさ」
唇をぎゅっと噛む。5秒ほど言いよどみ、口を開く。
「結局、できなくて悲しい思いをしているひともいるんだよ。だれにも言えないけど」
どーんと気持ちが沈む。やっぱり。
「でも、子供はみんな可愛いよ」
雪乃は自分にいい聞かせるように語る。
「だから圭ちゃんには頑張って欲しいの」
カラのペットボトルをバスケのフリースローの格好でゴミ箱に放り込む。カラン、と小気味いい音がした。雪乃が微笑む。
「公教育ではカバーできない貧しい子供たちの基礎学習を支援し、夢を与える『黎明舎』の存在は素晴らしいと思う。わたしも可能な限り協力するから」
ダメな夫にはもったいない、出来た妻の言葉だった。
「圭ちゃんはわたしの誇りだから」
穴があったら入りたかった。すまん、と両手を腿におき、兵頭は頭を下げる。
「ぼくのわがままにつき合わせてしまい、申し訳ないと思っている」
本音だ。『黎明舎』の収支はトントン。月謝5000円がとどこおることも珍しくない。払えなければ黙認する。子供に罪はない。学びたい、という意思が最優先だ。赤字分を雪乃に補填してもらうこともある。安定した中学教師の収入がなければやっていけなかった。感謝してもしきれない。周囲からは髪結いの亭主、ヒモ夫、と揶揄の声も飛んでくる。雪乃も職場、プライベートを問わず肩身の狭い思いをしているだろう。
でも、いつかは──テーブルの下で拳を握り締める。
「圭ちゃん」雪乃が笑みを消し、凜とした眼差しを向けてくる。
「申し訳ない、と思うのならやめて」
ガツン、と衝撃があった。兵頭は逃げるように目をそらす。が、雪乃は容赦しない。
「あなたが負い目を感じて生きていくのはつらい。そんなふうに思うのなら潔くやめて」
返す言葉がなかった。重い静寂が満ちていく。川越街道の轟音が不快なBGМとなって響く。
「じゃあ、明日も早いから寝るね」
雪乃は返事も待たず背を向け、廊下の奥に消える。寝室のドアが閉まる音がした。すまん、と頭を下げる。雪乃、おまえは素晴らしい中学教師で、おれの大切な妻だ。しかし、心に秘めた夫の野望は知らない。兵頭は食器棚からウィスキーボトルを出し、グラスに注ぐ。ストレートのまま一気に飲む。首筋が火照り、どろりとした酔いが回る。
脳裡に浮かぶ顔がある。氷の表情。城隆一郎。あの男のように生きられたら──。グラスの残りを干す。熱い浮遊感に包まれる。無理だ。不可能だ。自分の能力はとっくに承知しているはず。
さんざんな過去が甦る。ウォーレン・バフェット、世界一の投資家にして慈善活動家。学生時代から憧れ、日本のバフェットになってやる、と決意した。が、卒業後、実社会に出るや夢も希望も、すべてが砕け散った。現実はきびしい。城隆一郎の圧倒的才能の前に、自分はあっさりひれ伏した。とことん情けない男だ。
今夜もそうだ。パーティの席以外、面会の時間がない、と言うからわざわざ六本木まで赴き、必死の思いで説明したのに、逆にコケにされる始末。最後には城に突っかかってしまった。結局、城は承諾したのか? しなかったのか? それさえわからない。己の情けなさが身に沁みる。
ちくしょう。抑えていた怒りが爆発する。会費3万円、ドブに捨てちまった。生徒6人分の月謝。ガツン、とテーブルを殴りつける。グラスが倒れ、転がり、落下、フローリングに激突して割れる。あちゃー。寝室のドアが開き、静かにしなさいっ、と中学教諭の叱声が飛ぶ。
「もう遅いのよ、ご近所迷惑でしょっ」
ドアがばたんと閉まる。はい、すんません。しょぼんと肩を落とし、床にかがみこんでグラスの欠片を拾う。たった一度の人生、こんなんでいいのか?
(第2章終わり、第3章に続く)