「だれもが恋に落ちる」といわれるほどロマンティックなメロディが人気でコンサートでもよく演奏される音楽家グスタフ・マーラー。三重の孤独を生きた、といわれるその生涯は、黄金期の最後を迎えていたウィーンと共にありました。書籍『ビジネスに効く世界の教養 クラシック音楽全史』より、一部をご紹介します。

フロイトと同時期に、世界の知が集結したウィーン大学で学んだ音楽家マーラー「三重の孤独を生きた」と言われるグスタフ・マーラー。彼をモデルにしたトーマス・マンの小説を原作とする映画『ベニスに死す』(1971年イタリア・フランス、監督ルキノ・ヴィスコンティ、主演ダーク・ボガード)もおススメ。全編に流れる「交響曲第5番」第4楽章アダージェットは、ロマンティックの極北です!

グスタフ・マーラー(1860~1911年)はウィーンを象徴する作曲家であり、ウィーン宮廷歌劇場監督として多くのオペラを上演したことで知られます。

 マーラーは、ボヘミア出身でモラヴィア育ちですからチェコ人(チェコは1918年まで、オーストリア帝国の領地)と言えます。しかし、幼い頃からドイツ語を話していたのでドイツ人ともいえます。そして、家系はユダヤ人ですが、途中でカトリックへ改宗していますから、どちらともいえません。彼は、オーストリアにもドイツにもユダヤにもアイデンティティを求められず「三重の孤独を生きた」と言われています。

 ナポレオン戦争後、中世の封建社会から近代国家へ移り変わっていく中、オーストリア帝国は1848年の市民革命を鎮圧することによって乗り切り、旧体制を温存しました。しかし、皇帝は改革を余儀なくされ、農民解放、帝国内諸国の関税共通化、領域内の営業の自由などを認めます。こうして資本主義市場経済が拡大し、飛躍的な経済成長を遂げ、帝都ウィーンは経済・文化の中心都市として栄えていきます。

 1860年代にはウィーンをかつてオスマン帝国から守っていた城壁が撤去され、跡地はリングシュトラーセ(環状道路)として開放されて周辺の土地も民間へ払い下げられます。リングシュトラーセ沿いには宮廷歌劇場やウィーン大学、ウィーン美術史美術館など、歴史的な意匠をまとった華やかな公共建築が立ち並び、帝国内の諸国から様々な才能が集結しました。マーラーもそのひとりです。

 1860年頃から1910年頃まで、ウィーン大学には世界に冠たる頭脳が集まります。マーラーは1875年にウィーン音楽院に入学すると、77年に大学入学資格を得て、ウィーン大学哲学部にも籍を置き、人文科学を履修しています。哲学部で教えていたブルックナーの講義も聞いていたようです。

フロイトと同時期に、世界の知が集結したウィーン大学で学んだ音楽家マーラーマーラーと同時代にウィーン大学で学んだジークムント・フロイト

 同時期にはジークムント・フロイト(1856~1939年)がマーラーと同じモラヴィアからウィーンへ上京し、やがて医学部に入学しています。

 マーラーやフロイトが在学していた頃、法学部の経済学教授カール・メンガー(1840~1921年)は限界効用理論を打ち立てて、近代経済学の限界革命を起こすひとりとなっています。当時のウィーン大学は「新機軸」「新発見」を次々に送り出すイノベーションの大学でした。ウィーン全体がイノベーションによって競争に打ち勝とうとする頭脳が集積する都市だったともいえます。

 マーラーは音楽院を卒業すると、帝国内の歌劇場の監督や指揮者として契約し、作曲も続けます。その後、スロベニアのライバッハ(現リュブリャナ)市立歌劇場、そしてモラヴィアのオロモウツ歌劇場、ハンガリーのブダペスト王立歌劇場、ドイツのハンブルク市立劇場などを経て、ついに37歳だった1897年、ウィーン宮廷歌劇場監督へ就任します。

 マーラーは1907年まで10年間、ウィーン宮廷歌劇場で膨大なオペラを指揮しました。この年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場と契約し、年末に赴任します。1909年には、ニューヨーク・フィルハーモニック首席指揮者に就任します。1910年には膨大な演奏会を指揮しますが、1911年、溶連菌感染による心内膜炎で5月18日にウィーンで死去しました。50歳でした。

 やがて、栄華を誇ったウィーン文化も、第1次大戦でハプスブルク帝国が崩壊し、共和制を経て、1930年代のナチスによるドイツとの併合で最終的に消え去りました。