「『今何時?』と私は聞きました。他に何を言うべきかわからなかったのです」

 あまりの非日常に我を失いかけ、瀬戸際で日常を取り戻そうとしたAさんのあがきであろうか。

 相手はそれに答えず、「結婚して」と呟いた。そして「ダメなら今夜ここで、2人で死のう」と言った。

 Aさんは持ち前のノリで彼女をなだめようと試みたが、その日の彼女は様子が違っていて、Aさんが何か言葉を発する毎に激情に駆られていくようであった。

「『もうやめてそういうこと言うの!』『もう限界なの!』といったことを彼女は叫んでいました。私はどうにもできなくて、どんどん怖くなっていって、次に彼女が叫んだとき反射的に彼女を突き飛ばしていました」

 急に突き飛ばされた彼女はベッドから転げ落ちて床に倒れ込んだ。Aさんは枕元に置いてあった財布を素早くつかむと、玄関へと一目散に走っていった。『待てこのぉキィャアアアーー!』という絶叫を背中に聞きながらドアノブに手をかけたところで、Aさんは背中にチクリとした痛みを感じた。

 振り返ると、立ちあがった彼女が髪を振り乱してこちらへと走り始めたところであった。Aさんは体当たりするように扉を開け、裸足で夜の街を駆け抜けた。アスファルトが足の裏に痛かったが構っていられなかった。路地を何度か曲がりながら100メートルほど全力疾走して振り返ると彼女の姿は見えなかった。

 Aさんは近くにあった雑居ビルの階段に一時避難して呼吸を整えた。彼女が近くまで追ってきている様子はない。落ち着くと背中がやけに痛いのが自覚された。手で触るとシャツ越しに血が、ベットリとまではいかないが付いた。おそらく彼女が投げた包丁が回転しながらAさんの背中にヒットしてついた傷だと思われた。