ボブ・ウッドワード著
(日本経済新聞出版社/2200円)
冒頭から異様なシーンに息を呑(の)む。米国家経済会議委員長のゲーリー・コーンが、トランプ大統領のサインを待つばかりだった親書を大統領執務室のデスク上から盗み出す。
手紙は、韓国の大統領宛てで、米韓自由貿易協定を破棄するという内容であった。「あの男には見せない。国を護らなければならない」とコーンは言う。当の大統領は、書簡のことを忘れてしまい、大事には至らなかったという。
このような綱渡りが、今もホワイトハウスでは続けられている。それも、当初のうちは、コーンやレックス・ティラーソン国務長官などの部下が周囲を固めていた。しかし、2018年2月にロブ・ポーター秘書官が辞任したあたりから、いよいよ「学級崩壊」は止まらなくなっていく。
今や最後の良心と呼ばれていたジェームズ・マティス国防長官も政権を去り、トランプ大統領と気が合う極端な意見の持ち主ばかりが周囲に残った。この先、米国はいったいどこへ向かうのだろうか。
トランプ政権の内幕物としては、既に『炎と怒り』(マイケル・ウォルフ/早川書房)が評判を呼んでいる。本書『恐怖の男』の書き手は、伝説の大物記者、ボブ・ウッドワードであり、ジャーナリストとしては幕下と横綱くらいに格が違う。しかし、伝えているホワイトハウスの内情は同工異曲であり、2冊を読み比べることで、かなり実態に迫ることができそうだ。
『恐怖の男』を読んで浮かび上がるトランプ大統領像は、保護主義者というよりも孤立主義者である。在韓米軍を撤退させたくて仕方がないらしい。周囲が「それはダメです」と理を尽くして説得すると、その場は納得するのだが、すぐに元に戻ってしまう。幸か不幸か、沖縄の在日米軍基地についての見解は分からない。恐るべきことに、これが米国の最高指導者であり、自由主義陣営の総帥なのだ。
本書におけるウッドワードの筆致は、どこか突き放したようで、淡々とトランプ政権の異常な日々を追う。そこには、問題意識や怒りさえ、乏しいように感じられる。かつて、リチャード・ニクソン大統領を辞任に追い込んだ『大統領の陰謀』(立風書房)以来、ウッドワードは歴代政権を描いてきたが、今回に限り、どこか本気になれないものがあったのではないか。
彼は『権力の失墜』(日本経済新聞社)では、ロナルド・レーガン大統領の嘘(うそ)に対してはやんわりと、正直が売りだったジミー・カーター大統領の嘘は手厳しく批判した。だが、「嘘つき」であることが自明のトランプ大統領には、筆が鈍ったというのは考え過ぎだろうか。
(選・評/双日総合研究所チーフエコノミスト 吉崎達彦)