当時、メーカー部門の売り上げは全体の3%と極めて小さかった。会社は卸事業が主力であったし、番頭など古参の社員には、「自分たちの力で卸部門を思い通りに運営したい」という思惑があった。なので、卸のことは何もしらない息子が入ってきて、あれこれ偉そうなことを言われるよりは、たとえ開発などへの投資に多少のお金はかかったとしても、メーカー部門で自由にやらせておくほうが、都合がよかったのかもしれない。

 結果的にはいい役割分担ができたと思う。

 私が卸部門に入っていたら、「こんな卸の商売の仕方はダメなんじゃないか」と若気の至りで自分の意見を主張しただろう。すると両者に軋轢(あつれき)が生じ、おそらく会社はうまく行かなかったと思う。

 お陰で私は、メーカーの仕事に専念することができた。そんな経緯もあり、“メーカーとしての小林製薬”として、私は「初代」社長ということになるのだろう。

アメリカにはメーカーとしての
小林製薬の「原点」があると確信した

 1964年、私は卸売事業で取引のあったライオンの合弁先である米製薬大手のブリストル・マイヤーズに招待されて2週間、アメリカを旅行する機会を得た。

 同行メンバーは卸の社長8人ほどで、20代は私だけ。皆、50代以上で60~70代の人が中心だった。本当は社長であった母が招待されたのだが「外国はよう行かん。お前が行って」と言うので、代わりに参加したのだ。

 着陸前、上空から見たアメリカの景色は50年以上たった今も鮮明に覚えている。

 地上に巨大な「花柄」模様が見えた。近づくと「あんなところを自動車が走っている」。それは高速道路のインターチェンジだった。まだ日本には高速道路がほとんどなかった時代。初めて見る光景に圧倒された。