もてなせば、相手が引け目を感じてお礼をしようと考えるだろうことを、ほとんどの人は理解しているでしょう。「もてなされた側」に立ち、「お返しせねば」と考えた経験は誰にでもあるからです。

 そして、理解している時点で、「見返りを求めないおもてなし」「見返りを求めないホスピタリティ」があるという前提に立つことはできません。

 おもてなしは、必ず経済的な循環の中にとり込まれているのです。

「見返りを求めていないように見える」
という部分に値打ちがある

 では、おもてなしにも、ホスピタリティにも、意味はないのでしょうか。

 それは違うのです。

 デリダは、「無条件なホスピタリティ」は不可能であるからこそ、非常に重要だと考えました。不可能だけれど、それをあえてやろうと本気で考える狂った瞬間が訪れることがあるからです。そのような狂気の行為が、むしろホスピタリティの価値を高めます。

 当然ながら、「見返りを求めていないように見える」という部分に値打ちがあるのです。

「見返りを求めてやっている」とわかった瞬間に、そのホスピタリティは価値を失います。不可能だとわかっていても、もてなす側はあくまで見返りを求めないフリを貫き続ける必要があります。表立って利益を求めれば、それは決して手に入れられません。

 ホスピタリティ、あるいは「おもてなし」という言葉を聞くと、一種ノスタルジックな感覚を覚えるのは、経済合理性を裏切るホスピタリティは、現代社会において居場所が見つけづらいからでしょう。

 だからこそ、人びとは「おもてなし」を高く評価し、ブーム化しているのです。

次回(5/17公開)は、システム工学が専門の川上浩司・京大情報学研究科特定教授の講義となります。テーマは「便利な社会は、豊かな社会か」。便利や効率を追求してきた人間社会の常識に一石を投じます。次回をお楽しみに。