2つめの疑問について答えるには、前提条件をはっきりさせる必要がある。老いや病を抱えながら永遠に生きたいと考える人はいないと思うが、健康的に生きられるならば不死を望む人はいるかもしれない。だがどの種の人生を想像すれば、永遠を生きてもよいと断言できるだろうか。定期的に記憶を失ったり、興味や目標を徹底的に変えていったりすれば、永遠に続く人生でも退屈から逃れられると想像することは可能だ。だがそれが本当に「私」なのかというと大いに疑問である(「メトシェラのケース」問題)。結局私たちが求めているのは、自分が満足するまで生きられる人生なのだから。

◇理性的に自殺を語る

 人はいつかかならず死ぬものだが、望めば自らの人生を終わらせることもできる。すなわち自殺だ。自殺というテーマを考えるうえでは、自殺の「合理性」と「道徳性」の問題を区別する必要がある。ここではまず自殺の「合理性」について焦点を当てる。そしてその後、自殺の「道徳性」についての問題にも目を向けていく。

 どのような状況ならば、自殺が合理的な決断になりうるだろうか。この疑問に対する著者の回答は、「自殺の選択が合理的な場合もあるが、推奨はしない」である。生きる価値のない人生を送る可能性が圧倒的に大きい場合、自殺も合理的に容認されうる。たしかに自殺はその後のあらゆる可能性を奪ってしまうが、自らの状況について明晰に考えたうえで、改善する可能性がまったくないと思われる場合もある。そういう場合は自殺が合理的な判断になるだろう。

 道徳性という観点からいうと、自殺の正当性をどう扱うかは道徳理論によってさまざまだ。なによりも結果を重視する功利主義的立場なら、「それが正しいかどうかは、万人にどれだけ多くの幸福を生み出せるかの問題である」と考え、「自殺はときとして受け入れられる」と結論づけるだろう。一方で「生きる権利のほうが重要である」と考える義務論的立場からすると、たとえ自殺することで得られる結果のほうが良くても、それを誤りと見なすはずだ。ただしある種の同意原則にもとづき、義務論的理論を十分に発展させていくと、自殺が道徳的に許容できないとはかならずしも言えなくなってくる。

 功利主義的立場であろうと義務論的立場であろうと、「自殺は常に正当であるわけではないが、正当な場合もある」というのが著者の出した結論だ。もちろん安易に自殺を受け入れてはならないし、明晰な考えができなくなったせいで自殺願望に取り憑かれている可能性も考慮すべきである。だが妥当な理由があり、必要な情報も揃っていて、自分の意思で行動しているとするならば、その人の自殺は正当になりうるのである。