石巻市教育委員会宛に質問書を手渡したことを報告し、石巻市立大川小学校の児童の遺族有志、8家族11人が、ひとりひとり思いを語った。この日、仕事等により参加できなかった他の家族もいるという。(2012年6月16日、宮城県仙台市)
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「1人1人、いろんな事情や立場があります。昨日も夜遅くまで話し合って、最後の最後まで考えてきました」

 6月16日、石巻市立大川小学校の児童遺族有志は、同市教育委員会に質問書を手渡した後、仙台市に場所を移して記者会見を開き、当時小学6年生の次女を亡くした佐藤敏郎さんが、こう苦渋の思いを語る。

 学校管理下にあった児童74人、教師10人が、東日本大震災の大津波にのまれて死亡、行方不明になるという、世界でも例を見ない大川小学校の「惨事」。この日、会見場となった仙台弁護士会館の大会議室には、意を決した大川小学校の児童の遺族、8家族11人それぞれが、メディアの前で壇上に並んだ。

「学校管理下で、多くの子どもたち、先生方が犠牲になるという前例のない事態で、毎日、我々も迷いながら、今日まで来ました」

 地方の町の狭い地域の中では、当事者間の利害や人間関係が、複雑に絡み合う。最初に口を開いた佐藤さんもまた、子どもの遺族の1人でありながら、質問書を手渡した相手と同じ教育界の現場で教壇に立つ、隣の女川町の中学校教師だ。

「市教委にはお世話になった先生もたくさんいる中で、このような場に出るのは、大変つらいです。でも、子どもたちは寒空の下、先生たちの指示を待って、ずっと校庭にいた。黒い波にさらわれていった子どもたちのつらさや恐怖を思えば、大人が立場的につらいからを理由にしてはいけない。次の段階に進むためには、思っていることを話さなければならない。教員だからこそ言えることがあるのも確かで、その役割を果たそう。いまがそのタイミングだと思いました。

 学校は、信頼されるべきところだと信じています。今日ここに来ることで、いろんな人や、生徒たちにも迷惑をかけているのは承知しています。申し訳ないと思っている。でも、きっとわかってくれると信じ、我々はそれなりの覚悟と決意を持って、カメラの前に立ったんです」

矛盾する市教委の説明に募る疑念
ついに遺族が立ち上がった

 それまで、遺族たちの一部は、「なぜ(地震から津波が来るまでの)50分もの間、校庭から避難しようとしなかったのか?」という根本的な問いに対し、二転三転する市教委の報告や、当時の聞き取り記録の不備、後手に回る対応などに疑問を募らせてきた。

 佐藤さんの妻のかつらさんも、石巻市の中学校教諭だったが、こういう市教委の元で働くのが「恥ずかしい」からと、最近、教職を辞めたという。会見には、次女の遺影を抱えて臨んだ。