なお、アンケートで「薄毛ではない」と回答した3609人のうち、将来的に「不安である」「やや不安である」と回答した人は計21.5%となった。この約2割に、筆者と知り合いの彼が該当しているということになる。この一群を仮に“薄毛不安者”と称することとする。

“薄毛錯覚者”と“薄毛不安者”に共通しているのは「実際は薄毛ではない」という点である。しかし、両者とも“薄毛への憂い”を拭いきることができない。これはなぜか。

 まず、「薄毛になることは大変おそろしいものだ」という前述の社会通念があり、不安の大きさから、一抹の点だったものが瞬く間に巨大な球にまで育ってしまう性質を、薄毛問題は有している。薄毛問題においては些細(ささい)な影が見逃されることなく、大きな不安としてのしかかってくる。これがまず“薄毛への憂い”が発生するゆえん「その1」である。

“薄毛への憂い”が発生するゆえん「その2」は、人の想像力に由来するものである。先ほども書いたが、筆者にとって他人の薄毛は他人事ではなく、「いつか必ず自分に訪れるもの」として認識されている。

 では薄毛錯覚者と薄毛不安者が、真の薄毛の人と向き合う時にどのように感じるかを考えていただきたい。そこにあるのは「自分はまだ薄毛じゃない。よかった」といった単純な優越感だけではない。将来のわが姿が彼であり、葛藤を経験して現在の姿となったその人に対する同情、いたわり、尊敬などが混在した、複雑な感情が胸に去来するのである。彼を卑下することは将来の自分を卑下することに他ならず、人は想像力でもって他人を思いやることができる。ならば、かの人を心の底からぜひいたわりたい――。

 しかし、ここで優越感が邪魔をする。災難に遭遇した人をニュースで観て、同情を寄せるとともにほぼ無意識的に「自分じゃなくてよかった」と安堵する、あの仕組みに酷似している。薄毛でない人が薄毛の人と向き合った時、どこかで「自分はまだ薄毛じゃないからよかった」と思ってしまうものなのである。そしてその心の動きを自覚する。

 いたわりたい相手であるはずの薄毛の人に優越感を覚え、次に生まれるのが罪悪感である。「自分はひどいことを考えている」「こんなこと思いたくないのに」「相手に失礼」「でも思ってしまった」「薄毛の人に申し訳ない」といった罪の意識が徐々に育ってくる。そしてやがてこの罪悪感から解放される着想を手に入れる。「いっそ自分も彼らの仲間入りをしてしまえばいいのだ」と。「ひょっとしたら自分って薄毛なんじゃ…?そうだ。そういえば薄毛の進行が始まっている気がする。とすれば、彼らに優越感も罪悪感も覚える必要はない。自分も彼らと同じ立場なのだから――。」

 これが“薄毛への憂い”が生まれるゆえん、その2である。少なくとも筆者自身、もう一度胸に手を当てて考えてみれば、この心の動きがおおいに認められることに気が付いた。薄毛錯覚者と薄毛不安者の存在は、人の想像力のあり方を示す一例でもあるのだった。