よく知られている通り、任天堂はもともと花札やかるた、トランプの老舗で、山内溥(1927年11月7日~2013年9月19日)は3代目の社長に当たる。
任天堂が家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」を世に出したのは83年7月なので、このインタビューが掲載された84年12月15日号当時は、すでに任天堂は「ゲームの会社」として認知されていた。とはいえ、80年春に発売されてヒットを記録していた携帯型液晶ゲーム機「ゲームウオッチ」と共に、娯楽の世界に新しい風を吹き込む注目企業という程度の存在である。なにしろまだ、あの「スーパーマリオブラザーズ」も出ていない。
インタビューの中で山内は、娯楽のエレクトロニクス化とマイコンゲームへの参入に関する取り組みの歴史と、その厳しさを説明した上で、「“遊ぶ時間”を売る商売は、ものすごく難しいですよ」と覚悟を語っている。
インタビュー段階で、発売から2年目のファミコンは累計230万台を見込んでいたようだが、最終的には世界で6291万台を記録した。われわれは、任天堂がこの後、世界のビデオゲーム市場を牽引する圧倒的王者となることを知っているが、その任天堂も参入当初は大いに悩み、もがいていたことがよく分かる。(敬称略)
(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
インベーダーゲームの功績
──今やゲームといえばマイクロコンピュータ・ゲームを指す、といってもよいほどですが、これはいつごろから始まったのでしょうか。
山内 私どもの会社が、マイクロコンピュータの前に“娯楽のエレクトロニクス化”に注目し始めたのが、昭和40年代の初めのことでした。エレクトロニクス・ゲームには、家庭用と業務用とがありますが、昭和40年代から50年代の初めにかけて、さまざまなものを、私どもの会社ばかりでなく同業他社も出しましたが、どうしても決定打が出ませんでした。このままでは前途に望みが持てないのではないか、と思われるほどでした。
そういうときにマイクロコンピュータが現れ、これを利用した“本格的”なマイクロコンピュータ・ゲームが出現したのが1978年の秋だったと思います。これが大ヒットして、娯楽市場に画期的な一ページを残しました。インベーダーゲームがそれで、79年の夏ごろまでブームが続いたと思います。