不朽:本田宗一郎氏

 本田技研工業(ホンダ)の創業者・本田宗一郎(1906年11月17日~1991年8月5日)の、74歳のときのインタビューである。当時、本田は取締役最高顧問となって経営の現場から離れていたこともあり、会社経営についてほとんど言及していないが、それだけにその人となりがよく分かる内容となっている。

「俺は子供のときからモビリティに富んでいて、移動するものが好きだった」と語り、「日本人と移動」に関する持論を展開するのだが、その中で、日本庭園の代表として世界に知られる京都の桂離宮のことを「嫌い」とバッサリ斬っている。小さい所にごちゃごちゃとミニチュアの自然を造る日本庭園は「俺の性に合わない。窒息しそう」というのである。

 インタビュー終盤では、「人生は離陸に始まって、着陸に終わる」と語っている。「着陸こそが人生の総決算」と語り、本田によれば、「飛行機は離陸より着陸が難しく、飛行機の事故は、だいたい着陸のときに失敗している」という。経営者としても、能力のある人に早々に会社を譲り、楽な着陸を目指すべきだと説く。

 そもそも本田は65歳のときに、大卒第1号社員だった河島喜好を社長に据え、すっぱりと現役を引退。世襲を良しとせず、3人の子供たちは会社にすら入れていない。鮮やかな引き際で世間を驚かせた。

 もっとも社長退任後も、のんびり隠居していたわけではない。ホンダの販売店、工場、営業所の従業員たちに直接お礼の言葉を伝えるべく、2年半にわたる全国行脚を続けたというのは有名な話だ。

 とにかく「動く」にこだわり続けた本田は、このインタビューの10年後、91年8月5日に84歳で亡くなった。逝去の2日前には入院中の病院で、夫人に自分を背負って病室の中を歩くように頼んだという。点滴の管をぶら下げたままの本田を背負い、歩いてくれた夫人に、本田は「満足だった」と言葉を掛けたという。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

シャガールに話した
“無”の境地

本田 これ駄目ですよ。絶対、おかしいよ。こんな色に描いたつもりないんだよね。

(銀座にある本田事務所の応接室に2枚の絵が飾ってある。うち1枚に“本田”の落款。白山林道の風景画。色が気に食わない、とその絵を背にして座ろうとしない。一緒に写真を撮られるのが嫌なのだ)

1981年1月31日号/本田宗一郎が語った「人生は飛行機なり、立派に着陸したい」「週刊ダイヤモンド」1981年1月31日号より 拡大画像表示

本田 蛍光灯がいけない。俺ネ、蛍光灯を使ったすし屋には絶対入らないことにしているんだ。せっかくのすしが腐った色に見えるからね。蛍光灯の下では、キッスもしたくない。お宅なんかなんでもしちゃうだろうがね。

──絵といえば、昨年暮れ、シャガールにお会いになったそうですね。お土産を頂いてきたとか。

本田 おお、あれはサインです。うちの女房がもらった。サインの所にちょちょ、と鳥なんか描いて……。

──鳥の絵を?

本田 なんか鳥のようだったな、あれ。シャガールの絵は鳥だか人間だか、訳が分からんから、僕らじゃ。手先が自然と動くんだね。僕の手と動きが違う。その代わり、車を運転させたら俺の方がうまいがね。

──カンヌの自宅に訪問されたんですね。

本田 めったに人に会わないんだってね。奥さんも一緒に。機嫌が良くてね。「日本ではどうして俺(シャガール)、有名になったんだよ」と聞くんですね、「よく分からんが、ほかの人のように、金もうけのために描くことをやらんからじゃないの」と答えたんだ。私もずいぶん経験したが、時間も忘れ、腹が減ったことも忘れ、寝るのも忘れて、なにかに没頭する。いわゆる“無”の境地ってやつだ。そういう境地が先生には非常に多いんじゃないか──と。

  “無”の世界というのが日本にはあるんだ。キリスト教にはあるかどうか分からんけどね。そうしたら「分かった、分かった」と言って、また握手し直してね。94歳とは思えないほど固く握ってね。

──本田さんは、なにをお土産に……。

本田 それが笑っちゃうんだよね。すずりと墨と筆を持っていったのよ。「これどうやって使うんだ」と言うから、「こうやるんだ」と。「ああ、そうか。こりゃ、いい」と言って、ちゃっちゃっちゃっと、それを持ってアトリエに行っちゃう。さよならでもなけりゃ、なんでもない。そしてそれっきり出てこないんだ。見た途端、描かなきゃいられんような境地になっちゃったんですね。ありゃ名人を通り越して、神の境地だね。片手に筆、片手にすずり箱を持って、上下に体を動かしながら、こうパッパッパッとね。僕がそのまねをしたら、奥さんが「ミスター・ホンダ、ユーそっくりだ」と、笑って、笑って。

──結局、お話しした時間は?

本田 1時間弱ね。最初にすずりを出していたら、おそらく話もできなかったろうね。