建国70年を迎えた中国だが、香港を大陸に取り込む構想が揺らいでいる。香港では4ヵ月にもわたり反政府デモが続くが、学生たち目指す回帰はどこにあるのか。香港は、150年余の英国植民地時代を経て「アジアでも最も個人主義を謳歌する」と言われた市民社会を形成したが、その本質はあまり知られていない。自らも香港に滞在し、バイタリティ溢れる香港社会の黄金期を体験した加々美光行・愛知大学名誉教授に訊いた。(聞き手/ジャーナリスト 姫田小夏)

失われた大陸の文化が
今なお残る香港

加々美光行・愛知大学名誉教授
加々美光行(かがみ・みつゆき)1944年、大阪府布施市生まれ。1967年、東京大学文学部社会学科卒業後、アジア経済研究所入所調査研究部で東アジア研究班に所属。1970年12月から香港に滞在、その後も継続的に視察・研究を行ってきた。1997年、愛知大学現代中国学部で初代学部長に就任。2005年、第58回中日文化賞 (中日新聞社主催)受賞。2014年、愛知大学現代中国学部教授を退任、同大学名誉教授。アジア経済研究所名誉研究員。著書多数、近著に『未完の中国‐課題としての民主化』(岩波書店 2016年)。

――加々美先生が香港に滞在されたのは1970年代。日本でもブルースリー旋風が吹き荒れ、映画からも香港社会の一端を知ることができました。香港市民は当時、どんな生活をしていたのでしょうか。

 香港は世界から資本が集まる一方、闇の世界も大きく、各国のスパイが暗躍する土地柄でもありました。金持ちが住まう高級住宅地が点在する一方で、その足元には猥雑な下町が広がっていました。当時の市場は、貧しい庶民には「おまけするよ」と安く売る一方で、金持ちや外国人には高値で売るという、ある意味の“二重性”が存在していました。

 香港には大陸から毎年のようになだれ込んでくる人口があり、文革終結期の1976年前後や、1989年6月の天安門事件後など、流入のピークが形成されました。香港は、文革により大陸で失われた、昔ながらの風習もたくさん残る街です。葬式の際、出棺と同時にわーっと泣く「泣き屋」、結婚式では、「天の神、地の神、かまどの神に三拝」というのも、その表れだといえるでしょう。

――加々美先生の滞在は、第25代香港総督(クロフォード・マレー・マクレホース、在任期間1971~1982年)による治世が始まった時期に重なります。英国の70年代といえば、福祉国家の肥大化を縮小させ、競争社会を復活させる「小さな政府」への転換が図られた時期でもあります。

 マクレホースの香港行政府は、安い賃料で入居させる公共住宅政策を推進しました。1970年代、そこに住んでいる友人を訪ねましたが、住まいこそ打ちっぱなしのコンクリートで狭く粗末なものでしたが、人々はここを拠点にお金をためて、次の人生の目標に向けて着実にステップアップしていきました。
 
 一方で、当時の香港行政府は、「少ない投資で最大の効果」をモットーに、英国官僚の駐在を少数にとどめ、圧倒的多くを香港人の公務員が占めるという形での統治を行っていました。また、「小さな政府」の在り方を徹底し、公共投資は住宅など一部のインフラに限定、それ以外は個人や団体など民間主導で投資をさせました。

 その最たる事例が学校です。香港では富裕層が中学校や高校を寄付し、そこに自分の名前をつけるというのが一般的でした。香港大学の中には個人の名がついた図書館があり、また奨学金も発達しています。行政がやるべき教育・福祉を支えたのは、こうした慈善事業でした。橋や高速道路、病院や学校は華僑華人の香港資本で建設し、国の厄介にならず、また国がなくてもやれるように、自由闊達に社会を形成していく――香港は「レッセフェール」(自由放任)の精神に溢れ、「小さな政府」のもとで市民はいきいきと生活していました。