1918年1月、前月に発足したドイツ社会化委員会委員にシュンペーターを押し込んだのは、ウィーン大学のゼミ生仲間だったルドルフ・ヒルファーディンクとエミール・レーデラー(1882-1939)だった。ヒルファーディンクについては前回書いた。今回はレーデラーを中心に。
シュンペーターも委員を務めた
ドイツ社会化委員会
ドイツ社会化委員会は、ヒルファーディンクらの提唱で発足した。委員長のカール・カウツキーは反ボリシェヴィズムで知られるマルクス主義の思想家・理論家である。独立社会民主党に入党したヒルファーディンクは、産業の社会化(国有化)による経済立て直しを図ろうとしていた。社会民主主義者として当然の行動だろう。
しかし、社会化を図ろうとしている独立社会民主党、および多数派社会民主党の左派は絶対多数ではないから、ヒルファーディンクも漸次的な社会化をにらんでいる。社会化委員会の顔ぶれは社会民主主義者がほとんどとはいえ、考え方はいろいろだから、妥協が必要になる。経済界の意向だって無視できない。
選挙前の仮政府は両社会民主党が占めているが、仮政府閣僚は混乱を招く恐れのある急進的な社会化に否定的だ。しかし、労働者の要求は強い。ガス抜きも必要だ。したがって社会化委員会に答申を出させることにしたようだ。
ヒルファーディンクの政策同調者はマルクス経済学者として有名になっていたウィーン大学のゼミ生仲間、エミール・レーデラーである。2人がシュンペーターを味方として引き入れようと考えたのも自然なことだろう。
シュンペーターは、前回書いたように社会主義に対して、時としてヒルファーディンクよりラジカルな発言をしていたそうだから、ヒルファーディンクやレーデラーにとっては頼もしい助っ人だったと考えられる。
シュンペーターがドイツ社会化委員会でどのような発言をしたのか、いろいろ探したが記録はない。が、この時期の社会化委員会について、いくつかの文献に出ているので紹介しよう。1918年12月に発足した社会化委員会の委員については前回も紹介したが、もう少し詳しい文献があったのでもう一度顔ぶれを並べてみる。
美濃部亮吉『敗戦ドイツの経済復興』(1946 ※注1)によると、委員は、
◎カール・バロット(ベルリン大学教授)
◎ハインリッヒ・クーノー(多数派社会民主党の理論紙「ノイエ・ツァイト」発行者)
◎エルンスト・フランケ(社会改革連盟理事長)
◎ルドルフ・フィルファーディンク(★独立社会民主党の機関紙「フライハイト」編集長)
◎オットー・フーエ(国民議会議員)
◎カール・カウツキー(独立社会民主党の理論的指導者)
◎エミール・レーデラー(★ハイデルベルク大学准教授)
◎ヨゼフ・アロイス・シュンペーター(★グラーツ大学教授)
◎パウル・ウンブライト(一般ドイツ労働組合理事)
◎テオドール・フォーゲルシュタイン(戦時金属会社理事)
◎ロベルト・ウィルブラント(チュービンゲン大学教授)
★印の3人がウィーン大学のゼミ生仲間である。