ある考えを獲得するという考えから解放された修行は、般若心経にもとづいている。般若心経では「現象〈フォーム〉とは空(くう)〈エンプティネス〉である、空はそのまま現象である」としている。しかし、この教えだけに執着すると、二元論に陥ってしまう。本来、禅宗の教えに二元論はない。

 坐禅しているときに心を止めるのが難しく、心を止めようとしている自分に気が付いたならば、「現象とは空である、空はそのまま現象である」ことを認識しようとしている段階である。このような状態でも、次第に自身と坐禅のゴールが一つになっていく。

 なんの苦もなく坐禅ができるようになったならば、心は止まったのだ。この状態は「色は色であり、空は空である」という段階だ。

 心を止めるとは、心の働きを止めることではない。あなたの心が全身を満たしているということだ。広々と開け放たれた心で、足の痛みに悩まされることなく座る。これが、なんらの考えを得ることなく座るということだ。はじめは窮屈に感じるかもしれないが、その窮屈さの中で自分の道を見つけることが、修行の道である。

◇合掌礼拝

 坐禅後は床に伏して九拝する。合掌礼拝を行うことで、自分自身をあけ渡すことができるのだ。自分自身をあけ渡すとは、自分の持っている二元的な考えを捨て去るということである。そのため、坐禅では、座る修行と合掌礼拝の間に違いはない。

 一般的に合掌礼拝とは、自身よりも尊敬しているものに対して行うものだ。一方、禅では礼拝はブッダに対して行われるものだが、ブッダに対していかなる考えも持ってはいけない。ブッダと一つになるのだ。二元的な考えを捨てると、すべてがあなたの師に、尊敬の対象になる。