正力松太郎(日本テレビ放送網社長)

“日テレ”こと「日本テレビ放送網」。実はこの社名は、壮大な思いを込めて付けられたものだった。その名の通り、設立当初は「日本全国をカバーするテレビ放送網」を目指していたのである。

「週刊ダイヤモンド」1951年9月15日号に掲載された、読売新聞社社主で日本テレビの初代社長、正力松太郎(1885年4月11日~1969年10月9日)による「俺はテレビジョンをやる」と題された談話記事には、その熱い思いが開陳されている。

 24年、正力は破綻寸前だった読売新聞社の経営権を買収し、同社の7代目社長に就任した。部数を飛躍的に伸ばし「読売中興の祖」と呼ばれる存在となる。

 終戦後、A級戦犯容疑者に指定され東京の巣鴨拘置所に収容。釈放後も公職追放(パージ)となるが、その間に正力が野望を抱いていたのが民間テレビ放送だった。記事でも経緯が語られているが、鮎川義介・日産コンツェルン総帥を通して持ち掛けられた話だった。

 51年8月6日に公職追放が解けると、正力は一気にテレビ事業の実現に動きだす。わずか1週間後の8月13日に「日本テレビ放送網構想」(正力構想)を発表。今回紹介する記事も、そのタイミングで掲載されたものだ。

 正力構想は冒頭の通り、1社で日本全国にテレビ放送ネットワークを形成するというもので、東京を中央局として全国にマイクロ波を用いた無線中継伝送網を構築するという計画だった。テレビ放送で使用しない周波数帯域は通信事業にも利用するという内容も含まれ、この一大計画のために米国から資金と技術援助を受ける約束も取り付けていた。

 米国としても、日本におけるテレビ事業は、米国主導で行いたい思惑があった。その点についても、記事中で正力が説明している。

「元来、アメリカが日本でテレビをやろうというのは、デモクラシーの宣伝と反共宣伝が目的である。共産党の武器は虚偽と威嚇であるが、虚偽を暴露するのは、テレビが最も有効である。迅速に多数の人に事実を示して、虚偽の宣伝を破砕してゆく」

 当時米国には、世界中にまん延する共産主義を阻止するために、日本を含む世界の国々でテレビ放送ネットワークを建設し、映像メディアを活用する「ビジョン・オブ・アメリカ」という計画があった。正力構想はまさにそれを体現するもの。なにしろビジョン・オブ・アメリカ計画を先導するカール・ムント米上院議員が、前述した8月13日の正力構想の発表にもわざわざ同席しているくらいだ。

 正力は翌52年、日本初のテレビ放送予備免許を取得して日本テレビ放送網を設立し、社長に就任した。53年に本放送を開始し、着々と準備を進めるが、54年12月3日、正力の米国資本の導入とマイクロ波を用いたネットワーク構想は、国から却下され、その夢は頓挫することとなる。

 しかしそれにしても、もし正力の描いた、対米従属的で極めて政治的かつ軍事的な、情報戦のとりでとしてのテレビ網が実現していたら、日本のテレビを巡る風景は今とはまるで違うものになっていただろう。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

鮎川義介氏からの打診
言下に快諾した理由

週刊ダイヤモンド1951年9月15日号
1951年9月15日号より 拡大画像表示

 僕は余生をテレビジョン事業にささげたいと思って、目下、大馬力で企画を進めている。テレビジョンについては、一昨年の春からいろいろ考えていた。

 それは皆川芳造君という私の知人宛てに、アメリカのラジオの父といわれるド・フォレー博士から、日本でテレビジョンをやってはどうかという手紙が来た(のが始まりだった:解説者補足)。皆川君はかつてド・フォレー博士から特許をもらって、日本で皆川式トーキーというものを作り、博士と親交あるばかりか、この道の専門家である。博士は自分が作ったテレビに関する機械や特許を提供する上、発起人の一人になってもいいと言ってきた。

 皆川君は、この話を鮎川義介さんへ持っていった。鮎川さんは10年ほど前に、テレビをやろうと考えたが、満州行きが決定して、ついに断念せざるを得なかったことがある。鮎川さんは、今となっては自分にやる考えはないからと言って、僕に話が来た。僕は言下に「よろしい引き受けよう……」と言った。それには理由がある。

 日本にラジオが来たのは、大正13(1924)年で、僕が読売新聞に入って間もなくのことだ。当時、有力新聞はもちろんのこと、ラジオメーカーまで出願するありさまだったが、財界を打って一丸とするような強力な出願者がなかった。

 というのは、100円もするラジオ機械を買い、さらに高い聴取料を払ったりすることができるのは、電話を持っている人ぐらいだろうというのである。当時東京の市内電話は3、4万個くらいであった。この程度では、そろばんが取れないと思われていた。しかし、僕は少なくとも10万、うまくいけば20万、30万に増えるだろうと思った。もちろん今のように大きなものになるとは予想しなかったが……。

 その頃、読売は毎月一万数千円の赤字を出し、僕はそのやりくりに困り抜いていた。その矢先にラジオ問題が飛び出してきた。よく考えてみると、この大事な文明の利器を、新聞社やラジオメーカーが、片手間なんかでやる仕事でないと思った。

 そこで僕は郷誠之助、藤原銀次郎さんら工業倶楽部の人々を説いて、立派な放送会社をつくることにした。時の逓信大臣も、なるほどと納得したが、問題は27にも及ぶ出願者の整理であった。結局、五つの者に指定するからこれをまとめて一つにしたら、ということで、内閣と了解がついた。大体、1週間ほどで許可になるはずであったが、運悪く当時の清浦(奎吾)内閣が倒れて、護憲三派内閣(加藤高明内閣)が生まれた。私の計画も流産した。