“初代”の建物は1919年に失火から全焼してしまい、アメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトによって再建された。ところが、落成披露宴が開かれる1923年9月1日、関東大震災が襲う。しかし幸い、当時としては最高の耐震防火設備を有した建物はほぼ無傷で、むしろ絶賛を浴びる結果となった。
この年、帝国ホテルの支配人に就任したのが犬丸徹三(1887年6月8日~1981年4月9日)である。一橋大学を卒業後、中国・長春で南満州鉄道が経営していたヤマトホテルにボーイとして就職、その後は上海のバリントンホテル、ロンドンのクラリッジスホテル、ニューヨークのリッツカールトンホテルなどを経て、帝国ホテルに副支配人として入社した生粋のホテルマンだ。
犬丸は、第2次世界大戦終盤の1945年2月に社長となり、3月10日の東京大空襲を経て、焼け野原となった東京で終戦を迎える。
終戦直後の9月8日、連合国軍総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサー元帥一行が、帝国ホテルで昼食会を開催することになったのだが、その際に犬丸は急きょ、マッカーサーを車に乗せ、都内を案内する役を担った。
そのときの回顧録が、本誌1952年5月15日号に掲載されている。
犬丸は、日比谷の第一生命館(犬丸は「第一相互ビル」と言っている)の前を通った際に、「焼け残ったものの中で、これが一番良い建物です」と説明し、そのせいでGHQの本部として接収されたのではないか、と心配している。
その他にも、後楽園球場(現東京ドーム)の前で収容人数を聞かれ、適当に「10万人」と答え(実際は約3万8000人)、「10万人とは大きいな」と、マッカーサーらGHQ幹部をざわつかせた話なども披露。わずか40分の東京案内だったが、その様子が生き生きと伝わってくる手記だ。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
食事までにまだ40分ある
東京を案内してくれないか
マッカーサー元帥が、横浜から東京へ進駐して来た第1日──。
帝国ホテルの表ロビーでは、ゼネラル・ウィロビー(チャールズ・ウィロビー)、ゼネラル・サザランド(リチャード・サザランド)以下の将星が約30人、元帥の到来を今や遅しと待ち受けていた。
それは終戦の年の9月8日であった。午前の11時から30分間、アメリカ大使館で進駐式を済まし、午後1時から、ここで昼食する予定になっていた。
元帥の姿が見えたら、すぐに宴会場へ案内し、食事を始める手はずが整えられていた。
私はどこにいたらいいものやら、分からないので、帳場の前で小さくなっていた。
間もなく元帥の乗った自動車がホテルの正面へ滑り込んできた。自動車から降りると、多分副官から聞いたものと思うがツカツカと私の前へ歩み寄って来られた。
「支配人」と私を呼んで、「部屋を見せてくれ」と言うのである。
全然予定していないことなので、私もこれには驚いたが、「ハッ」と答えて、案内に立った。
ロビーに居並んだ将星たちも呆気にとられている。その前を元帥はゆっくりと大股に歩んでいく……。
そのとき、とっさに私は考えた。……一体どの部屋をお見せしたらよかろうか。一番良い部屋を見せたものだろうか。いやいや、それでは面白くない、むしろ一番平凡な、数の多い、スタンダードの部屋へ案内しよう。……そこで私は2階の取っ付きの部屋に元帥を案内した。
マッカーサー元帥は、静かに部屋の内部へ入っていった。その場にいる者は、元帥と私のたった2人だけ、ほかに誰もいない。元帥はいろいろと部屋の中を眺めていたが、やがて、
「この部屋は幾らか」と聞いた。
「16円です」と答えると、気軽く、「ああ、そう」とうなずいた。
これがきっかけでいろいろのことを尋ねたが間もなく中庭に出た。
「もう一つ部屋をごらんになりますか」と私が言うと、
「もうこれでいい」と答え、元帥はふと時計を見た。
「食事までにまだ40分ある。その間、東京を案内してくれないか」
またしても不意打ちである。
「よろしうございます」と言って、すぐに玄関まで出たのはいいが、さて私はどの自動車に乗っていいやら分からない。マゴマゴしていると、元帥が自分の車の中から、声を掛けた。
「おまえ、ここへ乗れ」
そこで私は恐る恐るマッカーサー元帥の隣席に納まった。私の隣には参謀長が乗って、都合3人、自動車は静かに滑り出した。