政治体制の違いは
「国難」のときにこそ表れる

 この連載では、政治体制における「権威主義体制」と「民主主義体制」の差は、「国難」のときに表れると論じてきた(第228回)。うまくいっているときは、どんな国でも今の指導者と政治体制が素晴らしいと感じられるものだ。しかし、本当に素晴らしいかどうかは、「国難」に対応しなければならなくなったときに分かる。

 権威主義の国は、うまくいっているときは意思決定が早く、優れた政治体制のように見えなくもない。実際、習近平体制下の中国はトップダウンでの意思決定が早く、テクノロジーが急激に発達する現代では優位性があるという評価があった。だが、いったん危機に陥るともろかった。

 歴史を振り返れば、かつての共産主義や全体主義の国など、エリートが全てを決める「計画経済」の国はほとんど失敗した(第114回)。エリートは自らの誤りになかなか気付けないものだ。また、エリートは自らの誤りに気付いたとき、それを隠そうとし、情報を都合よく操作しようとする。しかし、操作しようとすればするほど、ますますつじつまが合わなくなる。国民がエリートの誤りに気付いたときには手の施しようがなくなっていて、国民はエリートと共に滅びるしかなくなる。端的な事例が、「大本営発表」を続けて国民をだまし、国民が気付いたときには無条件降伏に追い込まれていた、かつての「大日本帝国」だ(第108回)。

 新型肺炎に対する中国政府の対応は、まさにこの通りではなかっただろうか。李医師らが新型肺炎の発生に警鐘を鳴らしたとき、中国政府は「デマを流した」と決めつけて李医師らを弾圧し、深刻な事態を「隠蔽」しようとした。

 その後も、中国政府の「メンツ」が最優先されて、情報を都合よく小出しに発表した。WHOの緊急事態宣言も遅れに遅れた。結局、中国国民は何も知らされないまま春節を楽しむために「民族大移動」し、感染者や死者を急拡大させてしまった。気付いたときには都市は封鎖され、幽閉状態に追い込まれてしまったのだ。

 まさに、見事なまでに「権威主義の崩壊」が教科書通りに進行したといえる。結局、意思決定が遅く、一見頼りなくみえる「民主主義」のほうが、長い目で見れば「国難」によく対応できる。民主主義だけが、オープンな情報共有と議論によって政治家も国民も「失敗」から「学習」することができ、大きな体制変革なくして「失敗をやり直す」ことができるからだ(第198回)。