がんは多細胞生物の中の単細胞生物

 私たちの体のほとんどは、よくいうことを聞く体細胞で作られている。ふつう体細胞の分裂回数は決まっていて、何回か分裂すると、それ以上は分裂しない。場合によっては自ら死んでいく体細胞さえある。そういう、よくいうことを聞く体細胞によって、私たちの体は作られている。

 ところが、一部の体細胞の遺伝子に、突然変異が起きることがある。たとえば、細胞分裂をするときにはDNAをコピーして増やすが、そのときにコピーミスが起きることもある。あるいは放射線を浴びてDNAが変化することもある。その結果、細胞の性質が変わることもある。そして場合によっては、分化した細胞が未分化の細胞に戻ってしまうこともあるのだ。

 その場合は、分化した体細胞の中に未分化の細胞ができることになる。未分化の細胞というのは、さっき述べたように単細胞生物みたいなものだ。

 新しく生まれた単細胞生物(みたいなもの)は、体細胞と違って、周りの細胞のいうことを聞いたりしない。

 何回か分裂しても分裂をやめたりしない。どんどん分裂して、自分の子孫を残そうとする。でも、それを責めるには当たらない。本来、生物ってそういうものだ。乳酸菌だってアメーバだって、単細胞生物はみんなそうやって40億年間生きてきたのだから。

 でも体細胞のあいだに単細胞生物が生まれると、多細胞生物にとっては困ったことになる。単細胞生物はどんどん増えて、場合によっては積極的に体細胞を壊していく。つまり多細胞生物の体を壊していく。多くのがんは、多細胞生物の体の中に生まれた、この単細胞生物のことだ。つまり、分化した体細胞のあいだに生じた未分化細胞のことである。

 がんの大きな問題は、進化することだ。たとえば、がん細胞が分裂して二倍になる時間は、速ければ1日だ。しかし、がん細胞のかたまりである腫瘍の大きさが二倍になるのには、(ケースによって違うけれど)100日ぐらいかかる。腫瘍が大きくなるのは、思ったより遅いのだ。

 もしも、がん細胞が毎日二倍に増えれば、腫瘍の大きさは100日でだいたい100億×100億×100億倍ぐらいになるはずだ。それがたったの二倍ぐらいにしかならないということは、細胞分裂して増えたがん細胞の大部分は死んでいるということだ。なぜそんなに多くのがん細胞が死んでしまうのだろうか。

 がん細胞だって生きていくのは大変なのだ。がん細胞だって生きるためには酸素も食料も必要だ。でも、がん細胞はどんどん増えるので、すぐに酸素や食料が足りなくなって、がん細胞同士で奪い合いになる。その奪い合いに勝利しなければ、生き残れない。

 さらに免疫システムが、がん細胞を攻撃しにくる。そして、次々にがん細胞を殺していく。実際、私たちの体には、毎日数千個のがん細胞が生じているという。それらを私たちの免疫システムが片っ端から退治してくれるので、私たちはがんにならずに生きていくことができるのだ。

 しかも、もし私たちががんになって、がんに対する治療が始まれば、抗がん剤などもがん細胞を攻撃し始める。こうして次々にがん細胞は殺されていく。それでも、なかなかがん細胞が絶滅しないのは、がん細胞が進化するからだ。

 がん細胞が細胞分裂をしていくあいだに、がん細胞の遺伝子にときどき突然変異が起きる。ときどきとはいっても、ふつうの細胞に比べるとおよそ数百倍の頻度だ。突然変異を起こしたがん細胞がさらに細胞分裂を続ければ、その新しいタイプのがん細胞も増えていく。

 こうして、がん細胞の種類はどんどん増えていく。がん細胞の多様性が増大すればするほど、がんを根絶するのは難しくなる。いろいろなタイプのがん細胞があれば、さまざまな攻撃に対して、その中のどれかは耐性を持っている可能性が高いからだ。そのうちに、免疫システムでもなかなか退治できないがん細胞が現れてくる。

 さらにこの状況を促進するのが、別の臓器へのがん細胞の転移だ。実は、別の臓器に移住したがん細胞は、新しい環境に適応できずに、大部分が死んでしまう。しかし、たいてい一部のがん細胞は、なんとか生き残る。別の臓器で生き残ったがん細胞は、新しい環境のもとで、以前とは異なる自然選択を受ける。そして、以前とは異なるがん細胞へと進化する。そうして、ますます多様性を高めてしまうのである。

(本原稿は『若い読者に贈る美しい生物学講義』からの抜粋です)