本欄の前回、「ベートーヴェン生誕250周年、最新『交響曲全集』10本を聞き比べた!」の最後に書いたように、同じ曲でも楽譜の版(エディション)の相違が演奏に大きく影響するので、指揮者による楽曲の研究は楽譜の選択から始まる。クラシックだから楽譜にそれほどの差はないだろうと考えがちだが、とんでもない。1980年代以降に楽譜の考証は飛躍的に進み、実はどんどん変化しているのである。したがって演奏者による表現の差も拡大している。(ダイヤモンド社論説委員 坪井賢一)
同じ「第9」でも
楽譜の版によって全然違う!
ベートーヴェンの交響曲(全曲)でいえば、19世紀の終わりから100年間はブライトコプフ&ヘルテル(以下ブライトコプフ)が出版した楽譜が定本として存在し、大半の指揮者もオーケストラもこのエディション(ブライトコプフ旧版)で演奏していた。旧版は100年で何度か改訂され、1960年代の版が定本となっている。
その後、1990年代にベーレンライター社が批判校訂版を出版し、さらに21世紀に入るとブライトコプフが新版を世に出して、世界の指揮者は選択の段階で識見を問われるようになっている。
校訂版は、編集者である音楽学者がベートーヴェンの自筆スコアや各地に残るパート譜へのベートーヴェンの指示による書き込みなどを丹念に拾い出して検証し、反映させたものだが、資料の選択、読み方の差で違いがたくさんある。
たとえば、手元にベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」のミニチュア・スコアが4種類ある。
・音楽之友社版(ブライトコプフ旧版が底本1948年)
・ベーレンライター版(1999年)
・ブライトコプフ新版(2005年)
・全音楽譜出版社版(ブライトコプフ旧版底本2015年)
音友版と全音版はブライトコプフ旧版を底本としているので、現在はブライトコプフ旧版、新版、そしてベーレンライター版の3種類が存在することになる。これは市販されているミニチュア・スコアだが、オーケストラが使用するパート譜や指揮者が使う大判のスコアでは、これら3つに加えて、ヘンレ版が出版されたので4種類がそろうことになった。
これらの楽譜の版による具体的な違いは、じつはものすごく多い。
たとえば「第9」のスコアを開いて、第1楽章第1主題に初めてff(フォルティシモ)が出てくる箇所。このフレーズの終わりは付点八分音符が続くが、旧版(音友版、全音版)はf(フォルテ)で、ベーレンライター版もfだが、ブライトコプフ新版はsf(スフォルツァンド)と、冒頭からして2種類ある。
この部分の聴感上の差はそれほど大きくはないが、第1楽章の終結部に至るところで違いが聞こえる。旧版では弦、ホルン、トランペットのリズムは同じで、ティンパニだけスラーがなく、刻み続ける箇所がある。ベーレンライター版とブライトコプフ新版ではトランペットはティンパニと同じく刻み続けるようにスラーが削除されている。これは聞いていて誰でもすぐにわかる。