社会に出てからの勝負は「遊んだか」で決まる
――同じ東大卒でも「社会に出てから」活躍する人しない人の違いは、どこにあると思いますか。
藤原 東大受験というのはいわば「勉強甲子園」だと言いましたよね。先ほど述べた「情報処理力」を究極まで強化して競争するゲームのようなもの。それと、社会に出てからの優秀さというのは「質」が違うんです。だから、東大生でも壁にぶつかる人はとても多い。
僕自身、リクルートの新人時代は営業マンだったので処理能力の高さで乗り切れたのですが、新規事業の担当になってからはかなり苦労しました。
世の中の人々の意識の流れを読んで、次の時代の情報誌を創刊するには、処理ではなく、編集的な力が必要だからです。単純に言って、僕は本を読んでいなかったから、基本的に世の中を透かし観る教養が足りなかったのだと思います。
では、何が社会に出てから役立つのか。僕は、どんなに優秀でも「10歳までに遊んでこなかった人」は伸びないと考えています。遊びというのは言い換えれば「想定外のこと」にどれだけ出会ったか、ということです。たとえば、公園で小学生同士で遊んでいたら、同級生の弟(幼稚園生)が一緒についてきたとする。そこで「小さい子でもできる遊び」にルールを変更しますよね。遊んでいる子は、こういうことが自然にできるようになります。
社会に出てからの仕事は、子どもの遊びの延長ですよ。試験のように正解はない。コミュニケーションと想像力を組みあわせて、自分なりの仮説をたてていかなければならない。その中で、「納得できる仮説」つまり「納得解」を創り出さなきゃいけないんです。
ときど 数年前、試合になかなか勝てなくてスランプに陥ったのも、僕が格闘ゲームを「本気で遊んでこなかったから」だと思います。僕は、幼少期からずっと、勝ちだけにこだわってきたんです。効率的に、最短でたどり着ける「正解」を求めていた。これはもしかしたら、東大受験の悪癖かもしれません。
結果的に、本気でゲームに向き合って、面白がって、遊んできたライバルに負け続けるようになってしまいました。
『世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0』でも述べていますが、スランプから復活できた理由は、まさに「遊び」を意識したから。「この動きはムダだからやらない」と切り捨てていた選択肢とか、練習で遊びのつもりで技をやるようになってから、自分の戦い方の幅が、どんどん広がりました。