2020年はベートーヴェン生誕250年のアニバーサリー・イヤーだが、わが国の代表的な作曲家、山田耕筰が没して55年目の年にも当たる。山田耕筰といえば、「赤とんぼ」「待ちぼうけ」「この道」「からたちの花」といった童謡によって広く知られている。多くの日本人は彼を童謡の作曲家だと思い込んでいるが、実は100年前にヨーロッパの舞台芸術を日本に根付かせた大知識人だったのである。(ダイヤモンド社論説委員 坪井賢一)
歌手、指揮者、作曲家…
マルチな才能と行動力を発揮
山田耕筰(1886~1965年)の活動を再考する機会を与えてくれるのは、栃木県立美術館の企画展「山田耕筰と美術」(1月11日~3月22日)である。時系列で業績をたどり、関連する絵画、舞踊、雑誌の表紙、ポスター、写真、設計図、そして自筆の楽譜などを展示している。しかし残念なことに、新型コロナの影響で6日から24日まで休館になってしまった。
なにより、美術館の受付で手渡されるプレーヤーで山田耕筰の管弦楽や室内楽作品を聞きながら回覧できる。これは刺激的な体験だ。オペラや演劇などの舞台芸術は文学、美術、建築、そして音楽を融合したものだが、彼の活動を、童謡ではなくクラシックの作品を聞きながら観覧するので、文化的な多面性を理解しやすい。
もちろん大正時代の童謡ブームは近代日本音楽史上、非常に重要な出来事だった。山田耕筰の童謡を誰でも知っているのは、童謡が現在の小学校の音楽教科書にも掲載され、義務教育中に何度も歌っているからである。この点は後述する。
ちょうど100年前、1920(大正9)年は、山田耕筰が膨大な童謡を発表し始めた年でもあるが、彼は同じ年に帝国劇場でワーグナーの「タンホイザー」(一部)などを日本初演したプロデューサーであり、同時に指揮者でもあった。
年譜【注1】を見ると、1920年の活動は本当にすさまじい。マルチな才能と行動力がよくわかる。
まず、2月に創刊2年目の雑誌「赤い鳥」に「山の母」を発表してから各誌でおびただしい童謡を発表している。同じ2月に新劇協会第2回公演の音楽を担当し、3月には日本作曲家協会を設立(同人は近衛秀麿、成田為三、小山内薫、三木露風など)、4月に同協会主催で「山田耕筰氏独唱会」が開催され、シューマンの「詩人の恋」などを歌っているのだから驚く。
山田耕筰は東京音楽学校(現在の東京芸術大学)を卒業してからベルリン高等音楽院作曲科に留学しているが、東京音楽学校では声楽科の出身だった。当時、作曲科や指揮科は存在しなかったので、声楽科で作曲や指揮も学んでいたのである。
4月の独唱会の後も、ほぼ毎月、舞台の音楽監督、独唱会、オーケストラの演奏会に出演し、11月には松竹キネマの第1回、第2回上映会でオーケストラを振っている。まだ無声映画の時代なので、映像に合わせて生演奏していたのである。映画館はライブ会場でもあった。