矢野恒太
 第一生命保険を創業し、「相互会社の産みの親」と呼ばれた矢野恒太(1866年1月18日~1951年9月23日)。「ダイヤモンド」の1928年5月1日号に、本人による回顧談が掲載されている。場所は第一生命相互館、参加者は「矢野恒太氏を中心にして記者多数」とある。聞き手は、ダイヤモンド社の創業者、石山賢吉だ。

 記事では本人の口から詳細が語られているが、矢野が第一生命を創業するまでの経緯をざっとおさらいしよう。

 岡山県医学校を卒業し、日本生命保険に診査医として入社した矢野は、診査の傍ら、保険制度の研究にも取り組む。勧誘にも同行するなど、情報収集に没頭したという。一方で、社医代表として待遇改善を会社に要求し、当時の副社長、片岡直温に煙たがられ解雇された。

 今回の記事中、矢野は「僕は片岡君とけんかをして、日本生命を出されたけれども、その後すっかり仲直りをし、至って親密です」と語ってはいるが、当時はよほど腹に据えかねたのだろう。矢野は「日本生命社医を辞めた。諸君に告知する」との広告を新聞に打ち、自ら生命保険会社をつくると誓った。

 そして図書館に通って海外の保険制度を研究する中、相互保険主義を説くワグナーの保険論に共鳴して、『非射利主義生命保険会社の設立を望む』という小冊子を作成する。それが安田善次郎の目に留まり、安田の共済生命保険合資会社に入社し、社費で2年に及ぶ欧州研修にも行かせてもらうのだが、安田との理想との違いから4年で退社する。

 矢野がこだわったのは、契約者同士が相互扶助するための相互会社という形態だった。そのために、契約者は保険契約の当事者となると同時に、社員となって会社の運営にも当たる。このような組織の下、剰余金の大半を契約者に還元する相互主義による経営こそが、保険会社の理想形であるとの考えを矢野は貫いた。

 共済生命保険を辞めた矢野は、農商務省に嘱託として入省。初代保険課長として保険業法の起草に参画する。というのも当時、農商務省では相互会社法の制定を計画していたが、実際に法律を書く人がいなかった。そこで実務を知る矢野に白羽の矢が立ったわけだ。

 そして無事に法制化されると1901年に退省。矢野は早速、日本初の相互保険会社、第一生命を創設したのである。続く後編では、第一生命の経営の特徴や現況について、詳しく説明している。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

日本生命の保険医になるも
在社3年にして放り出される

1928年5月1日号
1928年5月1日号より

──貴下が相互会社をお始めになった由来を承りたい。

 私が保険事業に手を染めたことから申し上げないと、順序が立たん。まずそれからお話し致しましょう。

 私が岡山の医学校を出たのが25歳、満23歳くらいのときでありました。開業医になるにはまだ早い。どこかで少し修業をしようと思って、ブラリと大阪へ出た。その頃、大阪に、日本生命という保険会社ができていた。

 この会社には、大家のお医者さんが顧問になっていたが、誰も専門に従事する者がなかった。清野という私の恩師が、おまえ一つ保険医をやってみてはどうか、おまえでもきっとやれるから、と勧められた。そこで、早速日本生命へ入社した。