第一生命広島支社とそれを率いた支社長が、原爆投下直後の広島で、絶望の淵にいた市民たちに一筋の光を与えたエピソードとは?

 日比谷通りを挟んで皇居と向き合うDNタワー21に、第一生命保険の本社がある。この建物の前身となる第一生命館は、日本の戦後史を象徴する場所だ。1945年9月から1952年7月まで、6年10ヵ月にわたって、あのGHQ(占領軍最高司令部)の本部が置かれていたのだ。

 GHQの申し出により、日本政府から第一生命に第一生命館の接収命令が出されたのが1945年9月10日。以来、当時の第一生命社長・石坂泰三氏が使っていた6階の社長室は、マッカーサー元帥の部屋となった。GHQによる接収後、同じく6階にある大会議室には民生局が置かれ、ここでは日本国憲法の草案が作成されている。まさに戦後日本の「国の形」が、かつての第一生命館で決められたのである。

 ここまではよく知られている話だろう。実は最近になり、終戦直後の第一生命について、新たな興味深いエピソードが語られ始めたことをご存じだろうか。それは、第一生命広島支社とそれを率いた支社長が、原爆投下直後の広島で、絶望の淵にいた市民たちに一筋の光を与えた逸話である。今回は彼らの「気概」を紹介し、戦後70年の今、我々日本人が胸に刻むべきことを考えたい。

絶望の淵にいた市民に光を与えた
第一生命広島支社の「保険金支払い」

第一生命にGHQの本部が置かれて以降、石坂泰三社長が使っていた6階の社長室は、マッカーサー元帥の執務室となった。旧社長室は当時の姿のまま保存されている。写真は当時マッカーサーが使用していた革張りの椅子。現在、この部屋は非公開

 1945年8月6日、人類史上初の原子爆弾が広島に投下された。人や建物は紅蓮の炎に包まれ、焼き尽くされ、広島は一瞬にして廃墟となった。当時広島市の中心部にあった第一生命の広島支社も、甚大な被害を被った。しかし、かつて誰も経験したことのない混乱の直後から、第一生命広島支社はいち早く市内に仮設事務所を設置し、市内の生命保険の契約者を対象に保険金の支払い業務を開始したのだ。驚くことに、それは終戦の玉音放送が全国に流れた8月15日前後と、原爆投下から10日も経たない時期だったという。

 保険金支払いの指揮を執ったのは、当時の第一生命広島支社長・菊島奕仙(えきせん)という人物。爆風により、建物と建物内にある全ての書類が失われてしまったものの、一部の契約関係の重要書類は他所へ疎開させていたため消失・紛失を免れたこと、被爆後も広島市内を拠点とする一定数の職員が存在していたことという、いくつかの幸運が支払い業務を可能にした。

 興味深いのはその中身だ。彼らの対応は、死亡証明書や保険証書がなくても、仮設事務所を訪れた契約者に請求された通りの保険金を、署名と拇印のみで無制限に支払うという大胆なものだった。また、支社の建物が焼失し、現金・小切手が手元になかったため、一般の領収書を小切手の代用として保険金を支払っていた。