「負けたくない」って、いったい誰と戦ってたんだっけ?

 その日から、私はSNSのアプリをスマホから削除した。ついアクセスしてしまう癖をなくすことにした。仕事で止むを得ず使う場合に限るため、PCからしかアクセスできないようにしたのだ。

 さて、これで安心、と思っていたのも束の間。「中毒」というのは、そう簡単に治るものではない。

 インターネットで情報を追いかけるという、小学生から培ってきた15年ものの悪い癖はもはや私の体の隅から隅まで浸透してしまっていて、無意識のうちになんとかしてSNSにアクセスしようとしてしまうのである。

 今度はSafariから検索してアクセスするようになったので、アプリを消した意味はなかった。つい追いかけてしまう癖は変わらなかったのだ。

 もはやここまで依存がひどいと、もう解放されることはないだろうと思っていた。私は一生SNSと付き合いながら、中毒になりながら生きていくしかないのかもしれない。

 そう覚悟を決めた矢先、転機が訪れた。不思議とやめよう、と思えるようになり、すっとSNSに拘る気持ちがなくなった。

 私にきっかけを与えてくれたのは、衝撃的な事件でもなんでもない。『あやうく一生懸命生きるところだった』という一冊の本だ。

 最後まで読み終わってから、あらためて第1章を読み返すと、ある一節が私の心に深く刺さった。

※※※※※※※※※
 知らず知らずのうちに参加させられていた”レース”を棄権したような、今はそんな気分だ。レースに参加していないから、当然、勝ちも負けもない。

 ところで気になるのは、それが何のレースだったのか、まったく見当がつかないことだ。
 あのレースのタイトルは何だったのだろうか?

 誰が一番お金を稼ぐでしょうか大会?
 誰が一番最初に家を買うでしょうか大会?
 誰が一番出世するでしょうか大会?

 さっぱりわからない。
※※※※※※※※※

 一瞬、ひゅっと心臓が縮こまるような感覚があった。

 あれ、私、何のレースに参加しているんだろう。自分ごととして捉えてみると、怖くなった。

「言葉」に侵されている私たちを救うのは、
やはり「言葉」なのかもしれない

 毎日必死にSNSのタイムラインを追いかけ、学生時代の同級生が活躍しているさまを眺めては、自分のほうが優位に立っている証拠を探そうとした。

「活躍する若者」としてメディアで取り上げられている人たちを見ると、ついその人の年齢をチェックした。自分より年上だったら安心し、同級生だったら焦った。年下だったら、「この人は天才だから私とは違う」と思うことにした。猛烈に勝ちたいわけじゃない。一番になりたいわけでもない。でもどういうわけか、「負けちゃダメだ」という焦燥感が常にあった。

 そうやって、他人と比べることでしか自分の価値を見いだせていなかった自分自身に、そのときはじめて気がついたのだ。

 この人の言うとおりだ。
 私は一体、何と戦っていたんだろう。
 何のレースに参加していたんだろう。

 女としての幸せ? 人間的魅力? プライベートの充実度? 仕事? 見た目? フォロワー? いいね!の数?

 まったくもってわからなかった。とたんに、今まで自分が固執し、追いかけ続けていた「SNS」という社会が、ひどくみすぼらしいものに思えた。

 それから、私はSNSを見るのをやめた。

 見るとしても、仕事で使う場合のみ。約2週間が経過しているけれど、FacebookもTwitterもInstagramも、プライベートで見ることはほとんどなくなった。

 私たちは、言葉に囲まれて生きている。自分では大したことないと思っていたとしても、知らず知らずのうちに影響を受けていることがよくある。それがSNSの恐ろしいところだ。

「言葉」によって中毒状態になってしまった自分を救ってくれるのは、やはり「言葉」の力じゃないかと私は思う。まさか、あれほどひどかった「SNS中毒」から解放される日が来るなんて、思ってもみなかった。

 日々周りのざわめきに感情を揺さぶられて苦しい、という人がいたならば。何よりもまずこの本を読んでみることを、私個人としてはおすすめしたい。

「他人と比べる人生」をやめる決意が、きっとできるはずだ。

【過去記事はこちらから】
●第1回『「死にたい」と思っていた書店員の私が、人生に病んでいた頃の自分に読ませたい一冊』