文豪といえば、誰を思い浮かべるだろうか。おそらく、日本人の多くが真っ先に想起する人物の一人が、夏目漱石だと思う。代表作は、『三四郎』『それから』『こゝろ』など。没後100年を超えた今でも漱石を語る、論じる言説は編み出され続けている。
『吾輩は猫である』も有名な作品の一つだ。今回は彼の処女作であり、しかし意外にも“漱石論”で触れられることが比較的少ない同書について、解題してみよう。(ライター 正木伸城)
猫から見ると、
人間の慣習はおかしいことだらけ
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」。この書き出しは、私の中では川端康成『雪国』の出だし「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」を超える印象深い名句だと思っている。この作品の妙味は、当時の文芸界においても「この一編の作品によって、わが国の文壇に初めて世界に誇るべき風刺とユーモアとの文学を得た」と評され、これまで日本文学界で希少だったユーモリスト(=ユーモア文学の作家)が誕生したとたたえられた。
それもそのはず、主人公は猫である。「何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している」というくらいしか情報がない、親兄弟も出自もわからない捨て猫である。猫そのものに私たちは自由奔放なイメージを抱くが、猫もまた属性にしばられるところがない(そのことを漱石は冒頭からあえて記している)。
『吾輩は猫である』では、終始この奔放な猫が、あたかも実況中継のごとく苦沙弥(くしゃみ)先生やその他登場人物の言動を「けったいなものだね」と言わんばかりに嘲笑していく。人々の個々の言動はある意味で人間界の「普通」である。しかし、よく考えてみると(?)奇行めいたことや奇妙な慣習に見えるものもある。猫から見れば、それはおかしさの連続なのだ。
猫は冒頭、初めて人間を見た時のことを追憶する。