「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。死に対して、態度をとれない。あやふやな生き方しかできない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、ヒンドゥー教、仏教、儒教、神道など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。
現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』が9月29日に発刊された。コロナの時代の必読書であり、佐藤優氏「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。連載のバックナンバーはこちらから。

キリスト教やイスラム教のふしぎ。「人間は死んでも死なない」と考えるワケPhoto: Adobe Stock

誰もが復活する

 キリスト教とイスラム教に共通するのは、人間は例外なくみな、復活すると考えていることだ。復活。英語ではresurrection。死んだ人間が、新しい肉体を与えられ、もとの人間として生き返る。そんなことがあるわけがない、と思うかもしれない。あるわけがないことが起こるのが、神の奇蹟である。

 死んでも、生き返る。これを信じるのが、キリスト教、イスラム教だ。ハードルが高い考え方かもしれない。でもこれを信じる気持ちを理解しないと、一神教を理解したことにはならない。

 ユダヤ教は、人間が復活するかどうかについて、論争があった。福音書に、そのことが書いてある。はじめユダヤ教は、人間は死ねば土に還(かえ)る、と考えていたようだ。人間はもとはと言えば、無機材料(土)から造られたのだから、死ねば分解して無機材料に戻る。合理的な考え方である。

 旧約聖書のエゼキエル書37章にこうある。神は預言者エゼキエルに、枯れた骨に向かってこう言えと言う。「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」ここで霊とは、神から出る命の息吹のこと。するとエゼキエルの見ている前で、骨はつながり、肉と腱と皮膚を生じ、生き返って大集団になった。

 神はなんでもできる。神が命じれば、死者も復活する。これが一神教の考え方である。ユダヤ教は、果たして神がそう命じるかどうかについて、意見が分かれていたのだ。

 復活は、ハードルの高い考え方だ。でもよく考えてみれば、神が人間を造った、もハードルが高い。そして、創造を信じることができれば、復活を信じることは容易である。

 ロンドンで一八〇〇年に生まれたジョンを例にしてみる。

(創造)神が、ジョンを造ろうと思う
    ↓
    無機材料から、ジョンを造る(神は設計図を持っている)

(復活)神が、ジョンを復活させようと思う
    ↓
    無機材料から、ジョンを造る(創造のときの設計図をまた使う)

 復活のとき、神がやることは、創造のときと同じである。だから、難しくない。いや、二度目のほうが、ずっと簡単かもしれない。すると、つぎのことが言える。「復活は、二度目の創造である」。ジョンが知らないうちに、ジョンの精神のバックアップが、刻々神に送信されている。そのバックアップデータがあれば、ジョンはすぐ再現できるだろう。