キリスト教の核心とは?

 人間は復活する。これを信じることが、キリスト教の核心である。これまで復活したのは、イエス・キリストだけである。終末のとき、人間はみな復活する。

 それを教えるため、十字架で死んで、三日目に復活した。そして弟子たちに現れ、そのあと天に昇った。やがて再び来て、生きている人びと、死んで復活した人びとを裁く。このことは、たとえばニケア信条に書いてある。

 イスラム教は、イエスは十字架にかからず、直接天に上げられた、十字架で死んだのは誰か身代わりだった、と考える。イエスは終末のとき、再びやって来る。死者はみな復活する。キリスト教と細部は違うが、復活と最後の審判を信じているところは同じだ。

 まとめると、こうである。人間は、ひとり残らず復活する。復活は、死んだあと、「もう一回だけ」「自分に」生まれることである。復活したら、自分が復活した、と自覚できる。意識が持続する。人格が持続する。責任が持続する。ジョンは、いちど造られたら、もうこの世界から消えてなくなることはない、のだ。

 救われる場合、ジョンは復活したあと、神の王国で永遠に生きる。救われない場合、ゲヘナ(エルサレム郊外)という場所に連れて行かれ、「永遠の炎」に焼かれて永遠に苦しむ。このどちらかになると考えるのだ。

 ジョンがジョンである。個人が個人である。そのことの責任を、神は厳しく問う。それに応えて、神を畏れ、敬い、日々を過ごすべきである。死んでも、その責任は逃れられない。

 人間は死ぬ。いちおう。しかし、復活する。必ず。そしてもう死なない。永遠に。つまり、「人間は死なない」のである。「一神教では、人間は死んでも死なない、と考える」。

 これは、とても特異な考え方かもしれない。ほんとにそんなこと信じているの、と聞きたくもなる。けれども、これを信じるのが一神教(キリスト教、イスラム教)なのだ。

(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)