「日本のビール王」と称される高橋龍太郎(1875年7月15日~1967年12月22日)は、愛媛県内子町の造り酒屋に生まれ、第三高等学校(現京都大学)工学部を卒業後、1898年に朝日(アサヒ)ブランドのビールを製造する大阪麦酒に入社した。大阪麦酒は1906年に、日本麦酒(ヱビスビール)、札幌麦酒(サッポロビール)と大同合併し、大日本麦酒となる。社長となった日本麦酒出身の馬越恭平の下で、高橋はドイツ留学で学んだ醸造技術を基に製造畑を歩んだ。
高橋が大日本麦酒の社長に就任したのは37年。ビールの完全国産化を成功させ、満州や朝鮮への進出などで、大日本麦酒を当時の世界三大ビール会社の一つに育て上げた。しかし、第2次世界大戦後のGHQ(連合国軍総司令部)による財閥解体(過度経済力集中排除法)によって、49年に大日本麦酒は朝日麦酒(現アサヒグループホールディングス)と日本麦酒(現サッポロホールディングス)に分離解体される。それを機に、高橋は社長を勇退した。
「ダイヤモンド」55年9月5日号に掲載された高橋へのインタビュー記事では、日本のビール史や自身が社長に就任した経緯、3社合併と戦後の分割の是非などが語られている。高橋は大日本麦酒の分割には反対の立場で、「一つのものが二つに割れたことはいろいろな点から見て、無駄なものが多いと思います」と率直に語っている。当時、ビールの価格は公定価格だったため、価格競争はできない。ならば「大規模にして経費を節約して、製造コストを下げる。そして値段を下げる。それが大衆の利益になる」という考えだったようだ。ビールが自由価格になるのは9年後の64年なので、この持論は当時、一定の説得力があった。
一方、インタビュー後半はプロ野球や将棋の話に飛ぶ。プロ野球の歴史に詳しい人なら、日本のプロ野球史上で唯一、個人名が入っていた球団のことをご存じかもしれない。実は高橋は、企業家ではなく一個人の立場で、チーム設立に私財を投じた人物でもある。54年のパ・リーグに「高橋ユニオンズ」として、川崎球場を本拠地に参戦した。翌55年はトンボ鉛筆をスポンサーにトンボユニオンズと改称するのだが、ちょうどそのタイミングでの取材ということもあり、参入の経緯やスポンサー獲得に関する裏話を自ら語っている。
もっとも56年には再び高橋ユニオンズに戻る。そして、57年に大映スターズに吸収合併され解散、大映ユニオンズとなるが、これは現在の千葉ロッテマリーンズにつながる源流の一つである。ちなみにプロ野球のみならず、高橋は日本サッカー協会会長や、第3次吉田茂内閣では通商産業大臣を務めている。
また高橋は、名人位と王将位を持つ将棋棋士、坂田三吉に経済的な援助を行っていた。坂田との出会いや、坂田の弟子だった神田辰之助九段との思い出を語っている。高橋の棋風は坂田直伝で三段の腕前だった。大阪府豊中市の服部霊園には、将棋の駒の形をした坂田の墓碑があるが、それは高橋の寄付によって建てられたものである。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
日本、札幌、朝日
麦酒会社3社鼎立の時代
――ビール会社へお入りになったのは、何年でございますか。
1898(明治31)年。
――そうすると、三高(現京都大学)を出られますと、すぐ……。
その時分はね、日本麦酒が馬越(恭平)さん、札幌麦酒が渋沢(栄一)さんで、それから朝日麦酒が大阪の鳥井駒吉さん。会社の名前は大阪麦酒といったんです。その3社が鼎立して競争した時代です。
その時分の学制を、あなたなどは、むろん、ご承知になっておらないでしょうが、三高というのは専門学校だったのです。大学の予科でなくてね。
それが94(明治27)年に学制改革があって、三高は専門部になった。その年に私は入学したんです。それが京都大学の前身ですね。
私は工学部の機械科を98(明治31)年に出て、すぐ大阪麦酒へ入った。
――それから終始、ビール会社に籍を置かれたわけですね。
ヘィ、一生……。
――その大阪麦酒は、後日、合併されるわけですね。