佐治敬三・サントリー社長

 1899年に創業者の鳥井信治郎が大阪市でワインの製造販売を始めたのがサントリーの始まりである。1907年に「赤玉ポートワイン」、37年に国産ウイスキー「サントリー角瓶」を世に出し、洋酒メーカーとしての地位を築いた。

 そして、鳥井の次男で2代目社長となった佐治敬三(1919年11月1日~99年11月3日)は63年4月、ビール事業に参入する。

「やってみなはれ」と呼ばれるチャレンジ精神で有名なサントリーだが、ビール事業への参入はまさに果敢な挑戦だった。そもそも親子2代にわたる悲願であり、これを機に寿屋からサントリーに社名変更したことからも、一大転機と位置付けていたことが分かる。

 しかし当時、キリンビール、アサヒビール、サッポロビールの3ブランドでビール市場は寡占状態。当面の目標は、シェア10%を握り、万年4位から抜けることだったが、なかなか3社の牙城は崩せず、ビール事業は長年、赤字に苦しんだ。

 ようやく87年にチャンスが訪れる。「モルツ」のヒットで当時3位のアサヒの背中を捉え、シェア10%と黒字化を目前にしたのである。だが、アサヒも同年に「アサヒスーパードライ」で大ヒットを飛ばし、再び差をつけられてしまった。

 そこからさらに20年余りがたった2008年、「ザ・プレミアム・モルツ」や第三のビール「金麦」のヒットで、サントリーのビール事業は初の黒字を達成し、サッポロを抜いて業界3位に浮上した。参入46年目の快挙だったが、佐治はすでに没しており、悲願達成の瞬間を見ることができなかった。現在もサントリーは業界3位をキープし、16%のシェアを握る。

 今回のインタビューは、ビール市場参入の翌年に掲載されたもの。佐治は、先代の鳥井が戦前に阪急東宝グループの創業者、小林一三の勧めで取り組んだ“幻”のビール事業などにも触れつつ、当時の意気込みと将来への展望を語っている。聞き手は当時のダイヤモンド社社長、寺沢末次郎である。

 興味深いのは他社の動きだ。宝酒造が焼酎に続く事業の柱として投入した「タカラビール」(57年発売)、協和醗酵工業<現協和キリン>)が発売した発泡酒「ラビー」(60年発売)の話題も出てくる。しかし、タカラビールもラビーも、この記事から3年後の67年に撤退している。同時期に参入したサントリーも前述したように長く“赤字垂れ流し”状態だったことを考えると、その我慢強さと執念深さが際立つのである。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

ビールへの進出は
親子2代の悲願、酒類会社の執念

週刊ダイヤモンド1964年7月20日号1964年7月20日号より

──喉の乾いたときのビールのうまさ、これは、ビール党でなければ分からない味です。われわれとしては、うまいビール、安いビールが新しく生まれてくることを、大いに歓迎しているわけですが、酒類会社がビールに進出するということは、企業としてうまみがあるということなんでしょうか。
 宝酒造は、焼酎でもうけ、ビールで損をし、無配ですね。協和醗酵も「ラビー」を出していますがやはりラビーは損勘定となっているようです。
 サントリーさんも、昔、ビールでは苦い経験を持っておられると思うのですが……。

佐治 昭和5年でしたか、先代(サントリー創業者の鳥井信治郎)が「オラガビール」を買い取ったことがあります。当時、日英醸造というのがありまして、そこで、オラガビールを出していました。

 この会社の工場が、興銀でしたか勧銀でしたか、とにかく、どちらかの担保流れとなったのを、うちが引き受けたことがあります。

──オラガビールを引き受けたものの失敗だったのでしょう。

佐治 当時はビールの乱戦時代でした。価格競争が激しいときで、うちは、安いビールということで打って出たのです。

 しかし、価格競争では、商標をあまり伸ばすことはできなかったのですが、とどのつまりは、ビール会社に買い取られることになった。そこで、ソロバンをはじいてみたところ、決して損はなかったと先代は申していました。

──先代が亡くなられるとき、朝日の山本さん(当時の朝日麦酒<現アサヒグループホールディングス>社長の山本為三郎)とか、そのほか2~3人の方に「若い者が、どうしてもビールをやりたがっている。しかし、ビールは非常に難しい。ビールがうまくいかないような場合は、鳥井の財産とにらみ合わせ、適当な時期にやめさせるように」と、頼まれたということを耳にしているのですが……。

佐治 先代は、ビールが非常に難しい仕事だということを、身をもって経験しておりましたので、確かにそういう心配をしていたようです。でも、おやじは戦後、もう一度ビールをやりたいというか、むしろ勧められたのかもしれませんが、ビールに執心したことがあるのです。