寿屋(現サントリーホールディングス)の創業者 鳥井信治郎氏写真:サントリーホールディングス

 1923年、寿屋(現サントリーホールディングス)の創業者である鳥井信治郎氏は、京都の南西にある「山崎」の地に日本初のモルトウイスキー蒸留所を開設した。

 鳥井氏も語っているが、山崎は千利休が茶室「妙喜庵待庵」を設けたほどの水質の良さに加え、木津川、桂川、淀川(宇治川)の三つの川が合流するために靄(もや)が立ち込める湿潤な環境が、ウイスキー造りに適した立地とされている。

 初代の蒸留所長を任じられたのは、竹鶴政孝氏。2014年に放送されたNHK連続テレビ小説「マッサン」の主人公のモデルとなった人物だ。鳥井氏は「化学の専門家に来てもらって……」と語っているが、まさにそれが竹鶴氏だ。

 竹鶴氏は、勤めていた摂津酒造に籍を置きつつスコットランドに留学し、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学び、現地のウイスキー蒸留所で修業した。しかし帰国後は、第1次世界大戦後の大恐慌の影響で会社の業績が悪化、本格ウイスキー造りの夢は頓挫し、退社して自宅近くの中学校で化学の教師をしていた。

 そこに声を掛けたのが鳥井氏だった。もっとも、工場開設から6年後の1929年に発売された国産ウイスキー第1号「サントリー白札」(現在の「サントリーホワイト」)は、予想に反して売れなかった。スコッチウイスキー独特のスモーキーな香りが、当時の日本人には不評だったとされる。

 その後、試行錯誤を重ね、1930年に「サントリー赤札」(現在の「サントリーレッド」)、1937年に「サントリーウイスキー12年」(現在の「サントリー角瓶」)などが生み出され、サントリーは国産ウイスキーメーカーとしての地位を確立していった(竹鶴氏は10年契約を終え、1934年に退社、後にニッカウヰスキーを創業)。

 また、発売当初は不評だった「白札」も売れなかったのが幸いし、「売れないから、仕込んだ酒が、どんどん倉庫にたまった」(鳥井氏)ことで、熟成が進んで香りが日本人好みに変化していった。戦後は「シロ」と呼ばれ、サントリーの定番銘柄として親しまれるようになる。

 ちなみに、サントリーは現在に至るまで株式公開をしていない国内最大の非上場企業だが、記事の最後に鳥井氏がその理由を語っている。「公開するとなれば配当しなければならず、そのために無理にもうけようとすると、酒の質が落ちる」というのだ。

 後にサントリーはビール事業にも参入したが、2008年までの46年間、赤字を続けた。短期的な利益を株主から求められる上場企業であれば、ウイスキー事業もビール事業も今の地位を確立することはなかっただろう。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

赤玉の「サン」(太陽)と
鳥井の「トリイ」

1954年12月3日号誌面1954年12月3日号より

 私の方でウイスキーを始めることになったのは、第1次大戦後です。

 当時、洋酒は舶来品で、年間200万円くらいが輸入されていたものです。欧州大戦でいくら外貨が蓄積されたといっても、洋酒のようなものに浪費するのはもったいない。

 われわれが造れば、それだけ外貨が節約できるということで始めた事業です。

 それでウイスキーをやろうと決意はしたが、さて工場をどこにするかという問題があった。

 洋酒を造るには、第一、水の便りが良くなくてはいかん。それから靄(もや)が洋酒の仕込みにいいということも聞いた。それで、あちこち適当な場所を物色していたら、今の山崎がいいということになった。

 あそこは、太閣さんの天下分け目の合戦で有名な天王山があって、木津川、桂川、淀川の三つが合流しているから、朝靄もかかる、水質もいい、交通も便利だということなんです。ちょうど、ウイスキーの本場であるスコットランドのローズシモンの水に似ている。

 それで山崎に定めました。

 その次は、ウイスキーに何という名前を付けるかということです。

 あれは、うちで造っていた赤玉ポートワインがもうかったから始めた仕事で、赤玉の「サン」(太陽)と鳥井の「トリイ」をくっつけて「サントリー」といったのです。

 ところが、世の中には、頭のいい人がいて、あれは「鳥井さん」をひっくり返して、サン・トリーとしたのだという人がありますが、そうではない。種明かしは前の通りで、この名前も今から見ると良かったと思っています。