元・陸軍中将 企画院総裁 鈴木貞一
 鈴木貞一(1888年12月16日~1989年7月15日)は、第2次世界大戦における日米開戦に深く関与した人物の一人だ。陸軍中将だが純然たる軍事畑の職歴は少なく「背広を着た軍人」の異名を持つ鈴木は、1941年4月、第2次近衛文麿内閣で企画院総裁に就任する。企画院というのは、戦争遂行上の物資動員計画を立てる役割を担う機関である。鈴木は、開戦直前の御前会議において、日本の経済力、軍事力に関する分析結果を上程し、天皇に対米開戦を進言した。

 戦後、鈴木は開戦を主張したことを罪に問われ、A級戦犯に指名され、終身禁錮の判決を受ける。巣鴨拘置所に服役するが、10年後の55年に仮釈放、58年に赦免されている。そして、終戦から22年を経た「週刊ダイヤモンド」67年12月18日号で、鈴木は「物動計画から見た太平洋戦争」と題された証言を寄せている。

 鈴木は「戦争遂行上、絶対必要な物資が、大量に不足し、しかも手近で得られないため、日本は、昔から、極めて短期間に戦争を切り上げ、早く講和に入るという考えに立っていた」と語っている。短期間というのは、鈴木によれば「せいぜい2年分ぐらいの物を持ったらいいだろう」という見立てだったが、実際は1年分しか持っていなかった。それにもかかわらず、南方で石油開発を行いながら戦い続けるという楽観的な見通しだったことを明らかにしている。

 この点については、作家の猪瀬直樹も、著書『昭和16年夏の敗戦』(中公文庫)の中で、鈴木にただしている(インタビューが行われたのは82年8月)。猪瀬が、鈴木が御前会議に出した数字の客観性について尋ねたところ、「とにかく、僕は憂鬱だったんだよ。やるかやらんかといえば、もうやることに決まっていたようなものだった。やるためにはつじつまを合わせるようになっていたんだ。僕の腹の中では戦をやるという気はないんだから」と、開戦には反対だったと答えている。

 前出の猪瀬の著書は、真珠湾攻撃の4カ月前、「総力戦研究所」と名付けられた内閣総理大臣直轄の研究所で、各省庁、民間企業、陸海軍から集められた30代の若手エリートたちが模擬内閣を組織し、「日米が対戦すれば必ず日本は負ける」という予測を出していたという歴史的事実を掘り起こしたノンフィクションである。ところが実際の内閣は、つじつま合わせの数字に基づいて、結論ありきで日米開戦を決めてしまったのだ。

 ほかにも、鈴木の証言には驚愕すべき事実が満載だ。例えば、42年のミッドウェー海戦。日本海軍のミッドウェーへの攻撃は、米軍に事前に察知されていて、待ち伏せされていた。情報管理のずさんさが敗因の一つだが、鈴木の証言からもそれが裏付けられている。なんと秘密であるべき軍事作戦を同期の憲兵が知っていたのだという。「どうして知ったのかと聞いたところ、兵隊の手紙で知ったという。するとこれはおそらくアメリカに漏れているだろう。アメリカのわなにかかるようなものじゃないか。だからこれはやめたまえと言った」と、ミッドウェー作戦に反対した経緯を語っている。

 ミッドウェー海戦といえば、悪名高い大本営発表での事実歪曲もここから本格化したといわれる。空母4隻を失う大敗だったのが、戦意高揚のために損害の事実は過小に発表され、日本の勝利のように報じられたのだ。閣僚だった鈴木自身、「ミッドウェーの敗戦を僕が知ったのは43年になってからで、半年も遅れて負けたということを知らされた」と語っている。

 その他、人造石油の計画や、土で溶鉱炉を造り銑鉄を生産するなどの苦肉の策、鈴木が構想した特攻隊作戦の当初案など、さまざまな話が明かされている。あの戦争の愚かさを知るための、昭和史の重要な証言である。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

石油需要600万トンに対し
国内生産量はわずか30万トン

週刊ダイヤモンド1967年12月18日号1967年12月18日号より

 僕が、戦争遂行上の物動――物資動員計画を立てるということで企画院総裁に就任したのは、1941(昭和16)年の4月だ。

 当時、物動計画というものは、だいたい毎年4月に計画を立て、お上(天皇)に申し上げることになっていた。

 ところが、僕が企画院総裁になった41年度の物動計画は、外貨逼迫と国際関係の緊張で、ようやく、その年の6月になって出来上がった。

 物動計画というものは、だいたい、日本で生産するものと、満州支那大陸から来るものと、東南アジア方面から来るものを主体に、組んでいた。

 そして、これら3地域で賄えないものを、英米の勢力範囲やヨーロッパから輸入する、というようにしていた。

 ところが、だんだんと、英米の圧力が加わり、加えて、ドイツがロシアと戦争することになって物資の調達先は、結局、前記の3地域に限られてしまった。

 鉄鋼年産500万トンを目標に組んでいた日本の物動計画は、戦争をする前後になって、非常に貧弱なものになっていたわけだ。

 物動の中心は、何といってもエネルギーで、その主体は石油だが、日本国内の石油生産量は、いくらピッチを上げても、年間30万トンを超えない。これに対して需要は、平時の状態でも1年に500万~600万トンにも達する状態だった。

 それから、モリブデンとかチタンとか、ニッケルとかいうようないわゆる希少物資も、当時生命線と呼んでいた満州、支那大陸、台湾、フィリピンのライン以内では調達できなかった。