すべてを失う

 上野のジレンマが始まったのは、「なか」に異動になってから間もなくのことだった。お役所相手の営業は、下町の営業とはまったく趣を異にしたのである。

 上野は下町では人気者だったものの、役所との契約にはどうも馴染めなかった。上司からいくら説明をされても、確実に役所と1年契約を更新する方法をうまく飲み込むことができなかった。

「なにしろ役所側の担当者も、面倒だからなるべく納入業者を変えたくないと言うわけですよ。しかし、他の業者の入札価格をリークしたりすれば、それは犯罪になってしまうでしょう。じゃあどうするかというと、上の人間同士がネゴってうまくやるらしいんです。でも、僕にはこの“うまくやる”ということがどうもよくわからなかったんだ」

 バブル崩壊以前の話である。納入業者はゴルフだの飲み会だのと接待攻勢を仕掛けて、役所の“上の人”と昵懇になる。すると“上の人”が他の業者の入札価格をそれとなく匂わせてくれるという。そこのところの機微が、上野にはどうも掴み切れなかった。

「あの、バニーちゃんのいる銀座のエスカイヤクラブなんて、上司と一緒に何度行ったかわかりませんよ。ちょっと接待を怠ると、お役人の方から『最近どうしちゃったの?』なんて言われてしまう。接待は本当に大変でした」

 接待に継ぐ接待の末、ようやく上司から「この単価で見積もりを書いて入札せよ」という指示が出た。競合他社の入札単価の情報を、役人からリークしてもらったのだろう。上野は上司の指示通りの単価で見積もり書を作成して入札に臨んだ。

 ところが……。

「指示通りの単価を書いたのに、僕が担当していた官庁のレンタル台数がいきなり3分の2に減ってしまったんです。しかも、その原因をすべて僕のせいにされてしまったんです。上司がネゴってこの単価で行けと言ったのに、上司は『上野がきちんとネゴっていなかったせいだ』と社に報告したわけですよ」

 さらに上司は、上野に向かって信じられない命令を出した。

「契約更新できなかった50台分のレンタル料を、自分の給与から補填すること」

 直情径行が売りの九州男児である。上野は当然のごとく、切れた。

「ネゴに失敗したのは、お前だろう」

 殴りはしなかったが、職場で、大声で啖呵を切ってしまった。

 あまりの不条理に直面して、上野は自暴自棄になってしまった。そのなり方がまたしても直情径行というか、わかりやすいというか……。

「もう、怒りで頭が沸騰してしまってね。なにしろ月給が手取りで200万もあったから、金銭感覚が狂っていたんでしょうね。上司とぶつかったその日から丸1カ月、自宅に帰らずにカプセルホテルを泊まり歩いて、パチンコ、競馬、競輪、競艇とありとあらゆるギャンブルをやりました。そうしたら、あっという間に300万円の借金ができちゃった」

 上野のいた外資系企業には、10日間無断欠勤をすると懲戒解雇になるという規則があった。職場と自宅から失踪して2週間目、自宅に電話を入れると妻が出た。

「もう、存続は難しいわね」

 妻の声は冷たかった。存続とは、仕事の存続だけを意味するわけではなさそうだった。1カ月たって自宅に戻ってみると、すでに家財道具はすべてなかった。もちろんふたりの子供の姿もない。

 この日から、上野のどさ回りが始まることになる。