たとえば、ファシズム政権によって、農民は「民族の背骨」、労働者は「民族の精神」として称揚された。恵まれない層に対しては、オペラ、コンサートへの参加、外国への旅行などが提供された。ブルジョア階級には「文化の担い手」という地位が与えられた。ファシズム政権下では、あらゆる人間が経済的地位とは無関係だった。あたかも中国の文革時代のようである。
では、ファシズムが否定した経済人に代わるものとして、新しく概念化された人物像は何か。それが「英雄人」である。いつでも自らを犠牲にする用意があり、自己規律に富み、禁欲的で強靭な精神を持つ人間を指す。英雄人が、経済活動とは無縁で、国の中で役割を果たせる場所、それが国民皆兵の軍隊である。こうしてファシズムは必然的に軍国主義化する。
「あらゆる経済活動と社会活動を軍事体制下に置くという軍国主義は、産業社会の形態を維持しつつ社会に対して非経済的な基盤を与えるという、きわめて重要な社会的役割を果たしうる。しかも同時に、完全雇用をもたらし、失業という魔物を退治する役割を果たす」
ファシズムは経済の自由を否定し
人を兵隊として体制に組み込む
ファシズムでは自由な経済活動をさせず、禁欲を説いて、国民に節約させる。国民が貯蓄したカネは、国が公債を発行して国民にそれを買わせることで、国が吸い上げて、財政基盤を確立し、軍需産業を興し、軍隊を強化して完全雇用を実現する。つまり、脱経済至上主義と軍国主義はセットになって「失業」という魔物を退治した。一方でもう一匹の魔物である「戦争」を意義のあるものとして利用する。戦争があることで、英雄人に経済活動をさせずに、国が「兵として働き、犠牲をいとわず国に尽くす」という役割や意義を与えることができる。
しかし、国のために死ぬのが英雄人というような犠牲の正当化は社会を破壊する。プロパガンダはともかく、ファシズムの大衆も実際には戦争が怖いし、したくなんかない。というわけで、英雄人という概念による社会の構築はひとまずは成功しなかった。
このような状況では、逃げ道は一つしかない。それは、すべてを他人のせいにすることである。自分たちは正しいが、どこそこの国は絶対悪である、ということにして戦争をするのである。
「ファシズム全体主義だけが敵からの脅威の存在を自らの信条そのものの実体として扱う。そして、ついには、彼らからの脅威の絶滅こそが、ファシズム全体主義の正当化の事由とされる」
この延長線上で、ファシズムは再び欧州全体を戦火に巻き込んだ。本書は、第二次世界大戦勃発前に書かれているが、ドラッカーは「前向きな信条」が何もないファシズムでは、新しい社会を作り得ないことを誰よりも深く理解していた。そのうえで13世紀と16世紀にあった秩序崩壊に関してこう語る。
「古い秩序が壊滅し、新しい秩序が出現するまでの転換期の時代は、まさに今日のように混沌、恐慌、迫害、全体主義の時代とならざるを得ない。あの頃も終末が到来し、新しい展開はありえないと考えられた。しかし、突然、いずこからともなく、新しい秩序が現れ、悪夢はあたかも存在していなかったかのように消えた。(中略)「経済人」の社会が崩壊したあとに現れる新しい社会もまた、自由と平等を実現しようとすることになる。その未来の秩序において、人間の本性のいかなる領域が社会の中心に位置づけられるかはわからない。しかしそれは経済の領域ではない」