御堂筋を埋めた20万人が熱狂した「もうひとつの関西球団」プロ野球の日本シリーズを制し、優勝パレードをする南海ナイン(1959年10月31日) Photo:SANKEI

1950年代、関西で最も人気を誇っていた球団は、阪神ではなく南海ホークスだった。宿敵・巨人に挑み続け、ついに雪辱を果たした1959年、当時の大阪の街は歓喜に包まれ、20万人が御堂筋に押し寄せた。だが、その祝祭は“終わりの始まり”でもあった。関西野球の興隆と転換を刻んだ、その歴史的パレードをたどる。※本稿は、井上章一『阪神ファンとダイビング 道頓堀と御堂筋の物語』(祥伝社)の一部を抜粋・編集したものです。

かつて南海は阪神よりも
人気を誇り関西野球を盛り上げた

 1960年代前半まで、阪神の人気は南海のそれにおよばなかった。東京のジャイアンツにたちむかう。関西の野球好きが、その点で夢と希望をたくしたのは、南海であった。日本シリーズで、よく読売と対戦した南海に、大きな声援をおくったのである。打倒ジャイアンツという輿望をになう度合いで、南海は阪神を凌駕した。

 戦後のプロ野球で全国的な人気をはくしたのは、なんといっても読売である。セ、パ両リーグへの分裂後も、声援は読売に集中した。テレビ放送の開始は、ますますその勢いに拍車をかけていく。関西圏でも、読売人気は在阪球団を上まわった。ただ、その対抗馬としては、南海にいちばん多くの期待がよせられたのである。

 今日の関西圏では、阪神人気が群をぬく。だが、これは比較的新しい現象である。20世紀のなかばすぎごろまで、阪神を応援するひいき筋はあまりいなかった。関西圏のなかにおいてさえ、南海ファンより数は少なかったはずである。

 阪神の今日的な隆盛は、南海にとってかわることでできている。読売を相手どる物語のありかたにおいても、南海のそれをひきついでいるところがある。南海がのこした遺産のうえに開花した部分も、ないではない。御堂筋のパレードなどは、その典型例だと言えるだろう。南海の歴史があなどれないゆえんである。