社員を招いて初台の重光邸で行われた水泳大会(1962年)

「世界一のガムメーカーになる」と決意した重光が次に掲げた目標が「打倒ハリス」、業界最大手のハリス社から国内トップメーカーの座を奪取することだった。そのために重光は悲願だった、ガム市場の“本丸”である板ガム市場に参入する。葉緑素入りガムの発売や天然樹脂の使用などの商品開発で鬼才的マーケティングセンスを遺憾なく発揮した重光は宣伝・販売においても世間の耳目を集める“奇策”を連発、ガム市場でメガヒットを積み重ねていく。板ガム参入からわずか7年、ついにロッテは国内最大のガムメーカーの座を獲得する。(ダイヤモンド社出版編集部 ロッテ取材チーム)

統制経済終了による乱戦時代到来で大躍進

 第二次世界大戦の戦後処理が名実ともに完了することになるサンフランシスコ講和条約が発効した1952(昭和27)年(調印は前年)。連合国による占領は終わり(沖縄などを除く)、日本は独立国となった。

 この年の4月に砂糖、6月に小麦の配給統制が解除された。すでに49(昭和24)年には水飴と澱粉、翌50(昭和25)年には乳製品の統制が廃止されており、同じ50年には乳幼児食受給配給規則の廃止で乳幼児向けのお菓子の販売も自由化され、製菓業界は商品の自由な生産、流通が可能になった。

 実際、1951(昭和26)年の不二家「ミルキー」発売に続いて、52(昭和27)年には森永製菓が、進駐軍向けに製造していた「チョイスビスケット」を一般向けに発売し、サッポロビールが「リボンジュース」を発売といった具合に、お菓子業界は百花繚乱の時代を迎えていた。甘味に飢えていた戦後復興の時代から、豊かさを味わえる時代になったのであり、のちに「高度経済成長」(54〈昭和29〉年12月~73〈昭和48〉年12月)と呼ばれる、日本人の多くが豊かさを享受できる時代が目前に迫っていた。

 同時にそれは、第二次大戦は終わったが、製菓業界では新たな戦争が始まったということだ。統制経済の終焉で大手製菓メーカーは独自の商品ラインアップの拡充に動き、商品の流通を彼らに頼っていたロッテは自前の流通網構築に奔走していた(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)。

 ロッテも52(昭和27)年の4月に、日本で戦後初めて砂糖を使ったガム「カーボーイガム」を発売した。それまで、人工甘味料のサッカリンやズルチンを使ったガムしか食べたことがない消費者に、贅沢に砂糖を使った“本物”のガムが売れないわけがなかった。常に材料や品質に徹底してこだわってきた生真面目な重光武雄の面目躍如の新商品というわけである。「カーボーイガム」は倍々ゲームで売れゆきが伸び続け、ロッテの大黒柱的商品となった。

 続いて5月には、日本で初めて商品化された葉緑素(クロロフィル)使用の食品となる、葉緑素入りのガム「グリーンガム」が発売される。これも重光が発案した新商品である。そのきっかけは重光が、ガム研究で工学博士号を取得した世界唯一のガム博士で、ロッテの技術・開発担当だった手塚七五郎にかけた次の言葉だった。

「クロロフィルには増血効果や口臭を取る効果があるようだ。口臭が取れるというのはガムに応用できるんじゃないの? クロロフィルを入れたガムを作ってくれないか。クロロフィルを最初に作ったのは、東京教育大学(現・筑波大学)農学部教授の小原哲二郎だそうだよ」

 重光は化粧品を作っていた頃からクロロフィルに注目していた。米国では戦前から化粧品や飲料、菓子類の着色剤として広く利用されていたものの、その効果や効能についてはあまり知られていなかった。かたや手塚も、米国のいろいろな雑誌の要約記事が多数掲載されていた『リーダーズ・ダイジェスト』に出ていたクロロフィルの記事を読んでアイデアが閃いており、小原教授に連絡して協力を要請したのだった。

 この「グリーンガム」も、リニューアルを重ねて現在も販売されていることから分かるように、大ヒットロングセラー商品となった。

 それまでのロッテ最大のヒット商品は、竹のストローを同封した三角型フーセンガム。噛んだ後にガムを竹のストローの先に付けて吹くと、シャボン玉のように膨らんだ。玩具不足の時代に人気を集めた食玩(玩具の形をしたお菓子)であり、駄菓子屋で売られる子ども向け商品に過ぎなかった。それが、新商品の大ヒット連発で、「フーセンガムのロッテ」で勇名を馳せるとともに、ロッテのガムが、味や素材、そして機能で評価される商品へと姿を変えつつあったわけで、それは後述する、重光の商品開発や販売プロモーションにおける鬼才的マーケティングセンスによって加速されていく。