ベイシアグループは、作業服で快進撃を続けるワークマンをはじめ、ホームセンター首位のカインズ、ショッピングセンターのベイシアなど28社から成るユニークな流通企業グループを築き、売上規模は約1兆円に上る。その成長の中核となったのがカインズである。

 カインズは、土屋嘉雄氏が1958年に創業した「いせや」(現ベイシア)のホームセンター部門が1989年に分社化したもの。日本型ホームセンターの業態を定義したパイオニア企業の一つといえる。

 注目したいのは、時代の節目ごとに「3つの創業期」があり、そのつど時代の変化を嗅ぎ当て、それを独自のコンセプトに落とし込み、その実現に向けて組織や事業をトランスフォーメーションしながら、業界のゲームチェンジャーとなってきたことである。

 2002年に父の後を継いで社長となった土屋裕雅氏は、第2の創業期として「SPA(製造小売業)宣言」を行い、プライベートブランド(PB)の確立に力を注いだ。そして2018年には、第3の創業期となる「IT小売企業宣言」を発表。後継社長となった高家正行氏とともに、「世界を、日常から変える。」イノベーションに取り組んでいる。風雲急を告げる業界で勝ち残るには、いかなる手を打つか。土屋会長は柔らかな語り口で、経営のキーポイントを率直に語った。

カインズの成長を支えた
3つの創業期

編集部(以下青文字):ベイシアグループは、ホームセンターのカインズ、作業服のワークマン、ショッピングセンターのベイシアを中心に、28社から成るユニークな流通企業グループを築いています。その成長の中核となったのがカインズです。

 カインズには、時代変化の節目ごとに「3つの創業期」、すなわち、「第1の創業(1989年):ホームセンター開発」「第2の創業(2007年):SPA宣言」「第3の創業(2018年):IT小売企業宣言」があり、変革の転機となっています。

 第1の創業において、父親で創業者の土屋嘉雄さんは「商業の工業化」というコンセプトの下、徹底したロープライス戦略で大型ホームセンターのスタイルを確立しました。そこから何を学びましたか。

ベイシアグループ カインズ 代表取締役会長 土屋裕雅HIROMASA TSUCHIYA 1966年生まれ。1990年に早稲田大学商学部卒業後、野村證券に入社。1996年いせや(現ベイシア)に入社し、1998年にカインズ取締役、2000年に同社常務取締役を経て、創業者である父の後継として2002年代表取締役社長に就任。社長就任5年目の2007年に「SPA宣言」を行い、プライベートブランド(PB)の開発に注力。カインズをPBの成功モデルへと導き、同社を業界トップ企業へと成長させた。さらには、2018年の「IT小売業宣言」によってデジタル・トランスフォーメーションを実践し、小売業の枠に留まらない新たな成長ステージへと突入した。そして2019年3月、副社長だった高家正行氏に社長のバトンを託し、会長に就任。カインズをはじめとするベイシアグループを小売業の未来を切り拓く個性派集団へと進化させるべく、新たな挑戦を進めている。

土屋(以下略):私が野村證券を退社してベイシアに入ったのは1996年、グループ傘下の物流会社に配属されました。物流という、小売業を後ろから見る経験を最初にできたことは、とても勉強になりました。当時はほぼすべてのグループ会社の社長を創業者である父が担っており、その性格が色濃く各社に反映されていると感じました。父は服地問屋の丁稚から始めたせいか、商人気質の人でしたので、私が野村證券時代に見てきた企業経営者と比べて、一人の個性でいくつもの会社を統率するスタイルが異質に映りました。

 いかにも商売人らしいと思ったのは、世の中の変化に合わせてスタイルを変えることに、まったくこだわりがなかったことです。1958年、いせやを始めた時は服地の販売でしたが、既製服ブームがやってくると既製服を売るようになり、やがて食品販売や住関連にも乗り出し、当時先行していたダイエーやイトーヨーカ堂のようなGMS(大型総合スーパー)も手がけました。その後、大規模小売店舗法が施行されると、部門ごとにスピンアウトして専門化する方向へと舵を切りました。

 各社幹部が揃う経営会議でも、そうした父の性格が遺憾なく発揮されました。たとえば、営業利益率2%以下の店を抱えていた会社には、「それらを全部閉めてしまえば3%以上になるじゃないか」と、いささか乱暴な決断もいとわなかった。こっちだと一度決めれば、迷いなく進み、違うなと思えば、拘泥なく切り替える。こうした判断の速さやこだわりのなさこそ商売人の真骨頂なのだと、父の姿から学びました。

 創業者は「商業の工業化」というコンセプトにこだわっていたようです。

 父はそうずっと唱えていましたので、強く意識していたと思います。というのも、父が事業を始めた頃は、商業はまだ勘と度胸の世界でした。かたや工業は、1人当たり生産性など数字で管理する世界です。商業で成功するには、工業と同じように数字で把握し、実証主義で駆動するエンジニアリングの発想を持ち込まなければならないと考えたわけです。それは、欧米に比べて生産性の低い日本の小売業に工業の概念と手法を導入してコスト削減に努め、どこにも負けないロープライスの実現を目指すことでした。

 その商業の工業化を、事業として体現したのが、第2の創業期となる「SPA宣言」です。土屋さんがカインズ社長に就任して5年目となる2007年のことでしたが、この宣言に至るにはどのような経緯があったのでしょう。

 当初は、商業の工業化とSPAはほとんどリンクしていませんでした、父は「商工分離」を信条としており、「餅は餅屋に任せろ」と、実のところ、SPAに賛成ではありませんでした。それは過去の苦い経験から来ています。肌着を韓国の工場でつくらせて直輸入したところ、サイズが合わなかったり縫製が悪かったりして、結局売り物にならず、利根川の河川敷で燃やしたということがあったくらいですから。この失敗から、ものづくりはその専門家に任せるのがよいと考えるようになったのでしょう。いま思えば、ものづくりに強い人材もノウハウもまったくなかったわけですから、失敗して当たり前だったのですが――。

 一方で、私が入社した1990年代は血みどろの過当競争時代でした。大型店がオープンするたびに価格を下げ、お客様を取り合う激しい争奪戦が各地で繰り広げられていました。そうした厳しい環境下でカインズは何とかホームセンター業界で売上第1位になったのですが、2002年に私が社長に就任した矢先、業界に大きな衝撃が走りました。

 それは、中部圏のカーマ、北海道のホーマック、四国のダイキの3社が統合した、DCM(現DCMホールディングス)というホームセンター連合の誕生です。突如、当社の3倍規模もの巨大なライバルが出現し、新米社長だった私は大きな危機感を抱きました。というのも、社長に就任する少し前から、大型店によるロープライス方式の限界を感じており、低価格が当社の専売特許でなくなる日は近いと予感していたからです。

 実際、ロープライス大型店の乱立という同質化競争に否応なく巻き込まれていきました。それと同時に、M&Aをしなければ乗り遅れてしまう、そんな空気が業界に広がりました。ですが、当時35歳だった私は若気の至りも手伝って、「うちは独自路線でいく」と強気の発言をしてしまい、M&Aの案件がいっさい来なくなりました。その後すぐに反省し、「いや、実は興味あります」と訂正しましたが(笑)。

 そうした転換期の中で注目したのが、SPAです。実は、野村證券時代にユニクロ(ファーストリテイリング)の競合企業を担当していたため、同社の成長をずっと注視していたことが背景にあります。日本発で世界に通用するような業態をつくらなければならないという柳井正社長同様、私も及ばずながらそうした思いを抱いていました。

 また、ダイソー(大創産業)の矢野博丈社長(当時)の歯に衣着せぬ発言にも常に注目していて、100円ショップという業態にあって、世の中になかった独自商品を次々と発表していくダイナミズムも見習いたいと思っていました。こうした既存の小売業と違う、新たな切り口での成功者が出てきたことが、我々のSPA宣言の大きな後押しとなったのです。