仲村は鬱病を経験してから、一日一日を生き抜くことだけを考えて、先のことはあまり考えないようにしている。客に小言を言われたり叱られたりしても、むしろ、わざわざ言ってくれたんだ、わざわざ教えてくれたんだと思うようにしている。

「私、背が高かったら宝塚の男役になりたかったんです。いまでも、短髪のキリっとした女性に憧れますね。男性はナイーブで過去の失敗を引きずる人が多いけれど、私はあまりクヨクヨしません。お客様だって人間なんだから、話せばわかるはずです。取って食われるわけじゃありませんからね。

 私、犬や猫が大好きなので、犬の散歩をしている人に出会うと人よりも犬を見てしまうんです。動物は好きですけれど、離婚して以降、男性はあまり好きだと思えなくなってしまいました。男性って、女性が嫌がることを誤解している人が多いですよね」

 近頃、母親に認知症を疑わせる言動が多くなってきた。仲村は家にいるのが好きなタイプだが、ストレスがたまってくるとカラオケに行く。ただし、ひとりである。ひとりで2時間、うたいたい歌をうたいまくる。十八番は杏里の「悲しみが止まらない」。男友達はいなくはないが、カラオケには一緒に行かない。

 インタビューを終え、日立自動車の事務所を出て綾瀬駅を目指して歩く。相変わらず土砂降りの雨が続いていたが、何も食べていなかったので、早朝から開いている店を探して綾瀬駅の周辺を歩き回った。

 綾瀬には、マンションが多い。常磐線で亀有よりもひとつ上野寄りの綾瀬は、都心に通勤しやすいわりに、案外、地価が安いのかもしれない。マンションの住人の子弟が通うのか、大手予備校の看板も目立つ。資産を持たない人間は、頭か体を使って食っていくしかない。

 駅の北側に、朝からやっている居酒屋兼定食屋があった。店内を覗いてみると、案の定、明け番らしい男性ドライバーが5、6人でテーブルを囲んでいる。テーブルの上には、おかずの皿が数枚とビールの瓶が数本。

 店に入ると、ハムエッグ定食などというメニューがある。なんだか懐かしい気分になって頼んでしまったが、贅沢にも卵がふたつにハムが2枚乗ってきた。ドライバーたちを真似て、瓶ビールを頼む。朝から飲むビールは、すぐに酔いが回る。

東京タクシードライバー『東京タクシードライバー』
山田清機
定価792円
(朝日文庫)

 ドライバーたちの会話に耳を傾けてみると、あの交差点を曲がるとどうとか、高速の入り口があそこにあってとか、今度新しいホテルができたからどうだとか、地理の話を一所懸命にしている。夕べは4万で上がっちゃってさというのは、水揚げの話だろう。男は仕事が終わっても、集まって仕事の話ばかりしている。

 酔った勢いで、サバ味噌に豚の生姜焼きまで頼んでしまい、たらふく食べて外に出る。いずれも安くて旨い。店の看板をよく見ると、店名は「かあちゃん」である。たぶん男は、何をやっても絶対女性にはかなわないのだろうと、酔った頭で考えながら、通勤客で混み合う電車に乗り込んだ。

AERA dot.より転載