正直言って、各人が語っている内容に関しては、眼が飛び出るほどレベルが高いというわけではない。参戦するには、英語でのコミュニケーション力と方々から飛んでくる自己主張の応酬にキャッチアップしていけるだけの知識、機転、そして気合が必要だ。だが、それさえ備わっていれば日本人であっても、「なるほど。でも、その考え方には盲点がある。私ならこう考える」という具合に、クリティカルに、場にコミットメントできると思う。

 しかしながら、実際の国際政治・経済同様、議論の場を支配したり、自らの主張を周りに認めさせたりする力は、決して話している内容と質のみから発生するわけではない。どのようなタイミングで、どのように、誰に向かって主張するか。その過程で、いかに周りを取り込んでいくかという「議論のスタイル」のほうが、アウトプットとしては肝心だ。

 ケネディースクールには「空気なんか読んでいると置いてきぼりにされる」という暗黙のルールがある。主張しなければ、取り残され、いずれ、誰からも相手にされなくなる。

とてつもないインド人女性

 私が今学期聴講している授業に「Challenges of Democratization」(民主主義の挑戦)がある。

 アメリカの核心的価値観でもある民主主義が世界を救う、という前提で講義が行われているが、民主主義と富、経済成長、国際組織、民族問題、腐敗など、あらゆる相関性を検証している。途上国を中心に、各国が第二次世界大戦後民主化していったプロセスを振り返り、いかに民主主義が社会を良くしてきたか、逆に欠点はあるのか、そして、これから民主化しようとしている国家にとって参考になる要素はどこにあるのかを皆で議論している。

 民主化の道を行きつつあるミャンマー、独裁主義から民主化後、著しい成長を遂げている韓国、実質上の一党独裁を堅持しつつも、有機的な社会づくりを目指してきたシンガポールの歩みなどが、ケースとして取り上げられてきた。

 授業が始まると、1分も経たないうちに、学生たちは手を挙げ始め、教授の言っていることに疑問を投げかけたり、理解できなかった点を質問したり、自らの見解を主張したりする。まさに、“無政府状態”、“弱肉強食”、“ゼロサム”という言葉が相応しい授業風景だ。

 なかでも、いつも私の近くに座っているインド人女性がとてつもない。約90分の授業中、先生が話している間も含めて、ずっと手を挙げている。指してくれるまで、決して手を下さない。

 先日、私が「右手、疲れないの?」と心配して聞いてみると、「そういう非生産的な質問はしないで。少なくとも、筋トレになるでしょ」と冷静にあしらわれてしまった。