時代や環境変化の荒波を乗り越え、永続する強い会社を築くためには、どうすればいいのか? 会社を良くするのも、ダメにするのも、それは経営トップのあり方にかかっている――。
前著『戦略参謀の仕事』で経営トップへの登竜門として参謀役になることを説いた事業再生請負人が、初めて経営トップに向けて書いた骨太の経営論『経営トップの仕事』(稲田将人著)がダイヤモンド社から発売。好評につき発売6日で大増刷が決定! 日本経済新聞の書評欄(3月27日付)でも紹介され大反響! 特別編として対談形式でお届けする第2回。対談のゲストは、カレーハウスCoCo壱番屋(ココイチ)の創業者、宗次徳二氏だ。宗次氏より経営トップとしての創業期からの躍進の背景をうかがい、稲田氏は「ご夫婦が相互に参謀になっている」と説く。弱い部分を補完し合う役割をもった夫婦同士は、最強の経営パートナーだった。好評連載のバックナンバーはこちらからどうぞ。

弱い部分を補完し合う役割を持った経営トップの夫婦関係銀行から全面的に応援された理由とは?稲田将人氏(左)と宗次徳二氏 撮影・石郷友仁

人生が180度転換したきっかけは、
夫から妻へのある提案だった

稲田将人(以下、稲田) 今日は宗次さんの奥様のお話もうかがいたいと思っています。ご著書では、奥様の話が何度も出てこられますね。

宗次徳二(以下、宗次) もう、嫁さんあってですからね。うちの奥さんと結婚してなかったら、飲食の商売はしてなかったです。

稲田 高校ご卒業後は、不動産業へ進まれたのでしたよね。

宗次 私は、不動産業で一生送るつもりだったのです。不動産仲介や住宅メーカーでの6年間の勤務を経て、24歳で不動産仲介業を開業したんだけど、これが気楽な商売で。朝8時か9時まで寝ていて、嫁さんを寝床から送り出したら「何々買っといてね」ってメモがあって、それでスーパーへ行って……。そんな生活で満ち足りていて。不動産業は建売住宅が1棟売れると、何百万何十万と粗利益がとれる良い商売だったので。ただ、安定収入の保証はないので、嫁さんに言ったんです。「日銭商売をしない? 喫茶店やったら?」って。そうしたら「やりたいわ」と。それで人生が変わりました。

稲田 最初に喫茶店を言い出したのは、宗次さんだったのですか?

宗次 そう。「お好み焼き屋さんか、喫茶店か、本屋さんか……」って、3つ挙げたんですね。本屋さんは「裏の仕事が大変。組合もあって、簡単にはできないよ」と知人から聞いたので、その場でやめておこうと結論を出し、あとはあまり考えずに喫茶店でいいかと。とにかく、場所もどこでもいいし、早くやりたいから、2つと店舗を見なくて、とんでもない生活道路で店を構えてスタートさせたんですね。

稲田 喫茶店をオープンされて、すぐにこれはおもしろいと思われたんですか。ピーンと。

宗次 私はやるつもりはなかったんだけど、巻き込まれて。オープンの日、駐車場の整理なんかを手伝おうと一緒に行ったら、近隣の趣味で集った女性を中心にした十数人が一気に来てくれて。そうやってわざわざお越しいただけることに対して、見事に喜びを知って。不動産業は、新聞に三行広告を打っても電話すら鳴らない商売でしたから。「これは、おもしろそうだ!」と思ったと同時に、不動産業の廃業を決めたんですよ。「この商売を夫婦でやろう」と、その日に決めた。良いと思ったら2つはできないので、もうこっちで行こうと。それが運命。人生を180度変えました。25歳ですね。

稲田 25歳ですか。

宗次 不動産仲介業を開業してから、ちょうど一年ですね。4棟目の建売が売れて、お客様に権利書をお渡しして、すぐ廃業にしました。喫茶店では、オープン3日目くらいからコーヒーの淹れ方を教えてもらって。そのとき、モーニングサービスはしないと決めたんだけど、「そんな店は名古屋にない」って周りから忠告を受けましたね。

稲田 確かにあのあたりでは珍しいですね。

宗次 物を押し付けて喜んでいただいても嬉しくないので。値段は一緒にして、感謝の気持ちが伝わるような店、明るい店にしたいな、と。ココイチでも最初から、らっきょうは30円で売ろうと思っていました。やり方は一緒ですよね。

稲田 その店で、カレーをはじめたのですよね。

宗次 最初は苦労したけど、1年後に2号店を出して、3年目には両方とも超繁盛店になりました。ただ、イートインだけではこれ以上の売り上げは見込めないので、「もっと売上を伸ばすために出前をやろう」と。40万円でスバル・サンバーの中古車を買って、出前サービスを始めました。そのメニューでカレーが登場したんです。

稲田 私もココイチのカレーは、年に何回か食べますが、奥様のレシピだったのですね。

宗次 レシピっていうほど……。ただ、スパイスは最初からハウス食品さんでしたね。スパイスの8割、9割はハウスさんです。そのスパイスを元に、うちの嫁さんが何種類か独自に加えたり、調理の仕方を工夫したりとか、そういうこだわりはありましたね。

稲田 そうなんですか。

宗次 だから、ハウスさんとは1号店からのお取引で。

稲田 1号店から。

宗次 最初はこんなに大きく展開できるとは想像がつかなかったので、100店舗目を前にした頃、「将来、自分たちができなくなったときは、自分たち夫婦の次の次ぐらいまでの社長は、自分たちの思いも伝えてやってもらう。そのあとはもう、ハウスさんにやっていただいてもいいかな」って。一度だけですけど、立ち話したことがありました。本気では考えてなかったんだけど。