発売以来、ラグビーファンはもちろん、「チームをつくる」、「人を育て、その能力をエンパワーメントする」ビジネス書としても大きな話題を呼んでいるのが、名将エディー・ジョーンズ初の公式自叙伝『エディー・ジョーンズ わが人生とラグビー』だ。
本には、エディー・ジョーンズが出会った日本代表選手をはじめとする世界の名選手や、ラグビーの歴史ともいえるような名場面が数多く登場する。ラグビーファンにとっては、当時のことがさまざまに思い出され、胸が熱くなるシーンも多い。そこで本稿ではラグビーに関する著書も多数ある藤島大さんに、ラグビーワールドカップを第1回から取材し、日本と世界のラグビーに精通するスポーツライターだからこその視点から、本書を読んだ感想を伺った。
東海大と早大の試合でエディー・ジョーンズに出会う
――イングランド代表を率いるエディー・ジョーンズさんの、プロコーチとしてのキャリアのスタートが東海大学だったことにあらためて驚かされます。
スポーツライター、ラグビー解説者。
1961年東京都生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。卒業後はスポーツニッポン新聞社を経て92年に独立。著述業のかたわら都立国立高校、早稲田大学ラグビー部のコーチを務めた。2002年『知と熱 日本ラグビーの変革者・大西鐵之祐』(文藝春秋)でミズノスポーツライター賞を受賞。著書に『人類のためだ。 ラグビーエッセー選集』(鉄筆)、『知と熱』、『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)、『北風 小説 早稲田大学ラグビー部』(集英社文庫)がある。J SPORTS解説、ラジオNIKKEI『藤島大の楕円形に見る夢』にも出演している。
当時の東海大学は成長著しい強豪校の一角ではありましたが、優勝を狙えるような存在ではなかったんです。僕もそのころ早稲田大学のコーチで、エディー・ジョーンズを指導者に迎えた東海大と2軍のチームで練習試合をしたことがありました。その日のことをよく覚えています。
それは彼が、
早稲田の2軍は、
試合でレフェリーにすごい剣幕で文句を言っていたこともよく覚えています(笑)。激しい人だなと。当時の東海大の選手と会って話をしたことがあるんですが、やっぱりエディー・ジョーンズのことを尊敬しているんですよね。すぐには成績が出なかったですが、東海大をそれまでと異なるチームにしたかったのだと思います。
大学ラグビーを指導することの難しさ
――大学ラグビーで海外からコーチを招聘するというのは、当時、先進的な取り組みだったのでしょうか?
そうですね。それまでもあったとは思いますが、短期間でした。同志社はけっこう海外のコーチを呼んでいましたし、早稲田も1989年のシーズン、元オールブラックスの名士のジョン・グレアムとその弟子筋のグラハム・ヘンリーを呼んだことがありました。グラハム・ヘンリーは高校の先生だったんですが、のちにオールブラックス(ニュージーランド代表)をワールドカップ優勝に導いています。
――日本ラグビーとオセアニア地区との交流は、以前から盛んだったんですか?
同志社とニュージーランドとの交流は以前からありましたね。早慶明はどちらかというと外から何かを取り入れるというよりは、自分たちの方法を貫く文化がありました。
これは一般論ですが、海外から日本に来るコーチにとって、大学で教えることが一番難しいんです。日本の大学ラグビーは1軍からたとえば4軍まで、能力の違う選手が一つのクラブで同じ練習をしています。それは、彼らの常識にはないシステムなんです。違う能力の人は、違うステージで楽しむというのが海外強豪国のシステムですから。
海外では、大学でも1軍と2軍のチームにはそれぞれ監督がいて、別の場所で練習して、違う相手と試合をしていくわけです。彼らは能力の異なる人を一緒にすることを嫌います。日本の大学チームでは、部員全員を見なくてはいけないけれど、彼らとしたら、ひとりのコーチで見るのは25人くらいが上限です。
――海外から来るコーチにとって、日本の大学ラグビーを指導するのは大変なことなんですね。
エディー・ジョーンズの強みは、日本の大学ラグビー、トップリーグ、そしてジャパン(日本代表)を段階を踏んでコーチしてきたこと。日本国内のラグビーを理解していたんだと思います。