そして、経済発展を諦め、専門家任せではなく、市民が直接的に社会的共通資本を民主的・水平的に共同管理することによって、世界を再建すべきであるという考え方も勢いを増しつつある。

 この実現性をどのように考えるか。SDGsが免罪符的な欺瞞に満ちているといった意見が出てくることや、成果を生まないのではないかという懸念も理解できるが、市民(利害関係者)による共同管理などという口当たりの良い言葉にも、私は簡単に同意することはできない。私だけでなく、多くの中高年の人々は、社会に出て20年もたてば、「対話と協調」という調整システムは結局何も決めることができず、何も実施できないことと同義だと、知ってしまっているからである。

 たとえ合議による社会システムを構築できたとしても、議論百出でいつまでたっても何もきまらず、結局、合議の裏で取引が行なわれ、特定の権力者たちが自分たちに都合よくことを運ぶ――。その方法はまさに最悪だが、ものごとを前に進めるためには、結局このようなことになってしまうのではないか、と私たちは懸念してしまう。

ノーベル賞確実と言われた男が
21世紀に鳴らす警鐘

 ただ、時代は変わった。「地球人」としての意識の持ち方には世代ごとに大きな差がある。気候変動をはじめとした全世界への脅威を前にして、人類共通の利害意識が育ち、社会的共有資本の適切な管理を最重要と考える行動思考様式を持つ人々が、圧倒的多数になる可能性はあるだろう。

 社会や経済、地球環境に対する基本的なパラダイムと優先順位が再設定され、職業的専門家に新しい職業倫理意識が芽生え、定着する可能性もある。宇沢の構想したような、社会的共通資本の適正な管理が実現されるかもしれない。

 宇沢の教え子であるスティグリッツ、アカロフなどはノーベル経済学賞をとっている。かれらは「宇沢はノーベル経済学賞をとるべきだったし、とっていないのがおかしい」と言う。かのフリードマンも、帰国後の宇沢の論文のすべてをわざわざ英訳させて読んでいたともいう。

 経済学者としてそれほど注目されながら、主流派経済学から離れたため、宇沢はノーベル賞をとることはなかった。しかし、今後社会的共通資本の概念が再び強い脚光を浴び、宇沢の構想が人々の思考の道しるべとなるとき、その貢献はあらゆるノーベル経済学受賞者の貢献を超えるだろう。宇沢の卓見は、誰よりも早く、はるか先を見通していたのである。

(参考文献)佐々木実著『資本主義と戦った男 宇沢弘文の経済学の世界』

(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)