重要な政治決定の裏側には、スパイが絡んでいる。かつての国際的な危機や紛争、国家元首の動きもすべてお見通しだった。それは単なる偶然ではない。政治指導者の力でもない。さまざまな情報を分析したスパイたちのおかげだった。イギリスの“スパイの親玉”だったともいえる人物が、『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を著した。スパイがどのように情報を収集し、分析し、活用しているのか? そのテクニックをかつての実例を深堀りしながら「10のレッスン」として解説している。マネジメントを含めた大所高所の視点を持ち合わせている点も魅力だ。本書から、その一部を特別公開する。
説明を検証し、仮説を選択する
どのようにすれば「十分に説得力のある説明が得られた」ことになるのだろうか。
アメリカとイギリスの刑事司法制度は、当事者対抗手続きにおいて検察側と弁護側、それぞれが示す事実に関する別の説明がないかを法廷で検証する。その一方、情報分析官は、既知の証拠が自分の好む説明に合致すること、また反対証拠を報告書に含めるべきではないことを力説したくなる無意識の誘惑にかられるかもしれない。
説明を選択できるのなら、ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでないとする「オッカムの剃かみそ刀り」(14世紀のフランシスコ会の修道士ウィリアム・オッカムの名前にちなむ)に従い、複雑で起こりそうにない、あるいは多数の仮定に依存しないものがいい。
仮説が正しいと認められるには、そうしたすべての仮定を満たさなければならないからだ。手の込んだ仮定を加えてしまえば、どんな事実も、支持したい理論に合わせることができてしまう。だからこそ陰謀論が生まれるのだ。研修医は、よく次のように言われる。
「速足のひづめの音が聞こえたら、シマウマが動物園から逃げているのではなく、馬が駆けているのだと考えろ」
すべての仮説を競わせて最も妥当な仮説を導き出す「競合仮説分析」
進行中の事態について考えるときには、ほかの仮説が正しいという相対的な確率を意識することが重要だ。たとえば、証拠を検証した結果、サイバー攻撃の背後にいるのは、敵対する国の諜報機関ではなく犯罪グループである可能性が高いということになるかもしれない。
確率とは「起こりやすさ」のことである。たとえば、賭けで6面のサイコロを使うとする。
6が多く出るようサイコロに細工がされていると疑うなら、サイコロを何度も振ってみれば検証できる。
原則として、均質なサイコロを適切に振れば、6分の1の確率で6つの目のどれかが無作為に出ることになる。どの目が出るかは、前回出た目とは無関係のはずだ。とはいえ、3回あるいは4回連続で6の目が出ることもある(4回連続6の目が出る確率は1/6×1/6×1/6×1/6≒0.0008で1000分の1より小さいがゼロではない)。6の目が連続で出ても驚く必要はないが、100回振ったうち50回が6の目だったら、サイコロは均質でないというのが合理的な結論になる。6の目が出る確率は、サイコロを多く振るほど安定する。1000回、1万回振って同じような結果になるなら、サイコロが疑わしいという結論が正しい可能性はより高まる。
仮説(サイコロは適正である)と、別の仮説(サイコロは6の目が出るように細工されている)の結果を比べたデータ分析によって、サイコロは適正でないという仮説を信じるのは理にかなっている。
この場合の重要な問いは、サイコロが適正ならば、100回振って6の目が50回出る可能性はどれくらいか、ということだ。本書でも触れるベイズ推定の手法を用いて考えるといい。逸脱が大きいほど、「サイコロが適正でないことが証拠によって示されている」と信じるのが合理的と言える。
これは「競合仮説分析」(ACH)と呼ばれる手法だ。CIAの情報分析官であるリチャーズ・J・ホイヤーが開発した、西側の情報評価における重要な体系的分析技法の1つである。ACHでは、仮説(対立仮説)をすべて挙げ、どれを選択するかについてすべての証拠・推論・仮定の重要性を検証し(これは「情報報告の識別」という不快な名で呼ばれている)、反証が最も少ない説明を有力とする。
残念ながら、日々出合う状況の多くは、繰り返し試して検証することができない。また、観察したデータと比較できる理想的な結果(たとえば適正なサイコロの特徴)を事前に、あるいは原則から知ることもできない。
上司が部下の1人に不当な偏見を抱いていることは、サイコロの不正を立証するようには示せない。それでも仮説を立てれば、観察する行動と照らし合わせて、上司の偏見を合理的に立証できる。関係する人たちの動機を評価し、証拠に対して別の説明がないかを検証によって判断し、仮説を識別する。
このようにして日々、ベイズ推定を用いれば、観察したデータを最もよく説明していると考えられる仮説をある程度信じられるようになる。
どうしても主観的なものにはなるが、入手可能な証拠から得られる最善の仮説と言える。もちろん、新しい証拠が出てくれば、つねに修正を受け入れなければならない。
英ケンブリッジ大学を卒業後、国内外の情報収集・暗号解読を担う諜報機関であるイギリスの政府通信本部(GCHQ)に勤務、国防省を経て、GCHQ長官、内務省事務次官を務める。内閣府では事務次官や首相に助言する初代内閣安全保障・情報調整官(日本の内閣危機管理監に相当)、情報機関を監督する合同情報委員会(JIC)の委員・議長の要職を歴任したスパイマスター。『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を刊行。